------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ 例 黒須《くろす》 太一《たいち》 【読み進めるにあたって】 ストーリーは 1,「CROSS†CHANNEL」からはじまります。 順番はこの下にある【File】を参照のこと。 このファイルは CROSS POINT  1,「CROSS POINT(1周目)」 です。 ------------------------------------------------------- FlyingShine CROSS†CHANNEL 【Story】 夏。 学院の長い夏休み。 崩壊しかかった放送部の面々は、 個々のレベルにおいても崩れかかっていた。 初夏の合宿から戻ってきて以来、 部員たちの結束はバラバラで。 今や、まともに部活に参加しているのはただ一人という有様。 主人公は、放送部の一員。 夏休みで閑散とした学校、 ぽつぽつと姿を見せる仲間たちと、主人公は触れあっていく。 屋上に行けば、部長の宮澄見里が、 大きな放送アンテナを組み立てている。 一人で。 それは夏休みの放送部としての『部活』であったし、 完成させてラジオ放送することが課題にもなっていた。 以前は皆で携わっていた。一同が結束していた去年の夏。 今や、参加しているのは一名。 そんな二人を冷たく見つめるかつての仲間たち。 ともなって巻き起こる様々な対立。 そして和解。 バラバラだった部員たちの心は、少しずつ寄り添っていく。 そして夏休み最後の日、送信装置は完成する——— 装置はメッセージを乗せて、世界へと——— 【Character】 黒須《くろす》 太一《たいち》 主人公。放送部部員。 言葉遊び大好きなお調子者。のんき。意外とナイーブ。人並みにエロ大王でセクハラ大王。もの凄い美形だが、自分では不細工の極地だと思いこんでいる。容姿についてコンプレックスを持っていて、本気で落ち込んだりする。 支倉《はせくら》 曜子《ようこ》 太一の姉的存在(自称)で婚約者(自称)で一心同体(自称)。 超人的な万能人間。成績・運動能力・その他各種技能に精通している。性格は冷たく苛烈でわりとお茶目。ただしそれは行動のみで、言動や態度は気弱な少女そのもの。 滅多に人前に姿を見せない。太一のピンチになるとどこからともなく姿を見せる。 宮澄《みやすみ》 見里《みさと》 放送部部長。みみみ先輩と呼ばれると嫌がる人。けどみみ先輩はOK(意味不明)。 穏和。年下でも、のんびりとした敬語で話す。 しっかりしているようで、抜けている。柔和で、柔弱。 佐倉《さくら》 霧《きり》 放送部部員。 中性的な少女。 大人しく無口。引っ込み思案で、人見知りをする。 でも口を開けばはきはき喋るし、敵には苛烈な言葉を吐く。 凛々しく見えるが、じつは相方の山辺美希より傷つきやすい。 イノセンス万歳。 桐原《きりはら》 冬子《とうこ》 太一のクラスメイト。放送部幽霊部員。 甘やかされて育ったお嬢様。 自覚的に高飛車。品格重視で冷笑的。それを実戦する程度には、頭はまわる。 ただ太一と出会ってからは、ペースを乱されまくり。 山辺《やまのべ》 美希《みき》 放送部部員。 佐倉霧の相方。二人あわせてFLOWERS(お花ちゃんたち)と呼ばれる。 無邪気で明るい。笑顔。優等生。何にもまさってのーてんき。 太一とは良い友人同士という感じ。 堂島《どうじま》 遊紗《ゆさ》 太一の近所に住んでいた少女。 群青学院に通う。 太一に仄かな恋心を抱くが内気なので告白は諦めていたところに、先方から熱っぽいアプローチが続いてもしかしたらいけるかもという期待に浮かれて心穏やかでない日々を過ごす少女。 利発で成績は良いが、運動が苦手。 母親が、群青学院の学食に勤務している。肝っ玉母さん(100キログラム)。 桜庭《さくらば》 浩《ひろし》 太一のクラスメイト。放送部部員。 金髪の跳ね髪で、いかにも遊び人風。だが性格は温厚。 金持ちのお坊ちゃんで、甘やかされて育った。そのため常識に欠けていて破天荒な行動を取ることが多い。が、悪意はない。 闘争心と協調性が著しく欠如しており、散逸的な行動……特に突発的な放浪癖などが見られる。 島《しま》 友貴《ともき》 太一の同学年。 元バスケ部。放送部部員。 実直な少年で、性格も穏やか。 激可愛い彼女がいる。太一たち三人で、卒業風俗に行く約束をしているので、まだ童貞。友情大切。 無自覚に辛辣。 【File】 CROSS†CHANNEL  1,「CROSS†CHANNEL」  2,「崩壊」 CROSS POINT  1,「CROSS POINT(1周目)」  2,「CROSS POINT(2周目)」  3,「CROSS POINT(3周目)」 たった一つのもの  1,「たった一つのもの(1周目)」  2,「たった一つのもの(2週目)」  3,「たった一つのもの(大切な人)」  4,「たった一つのもの(いつか、わたし)」  5,「たった一つのもの(親友)」  6,「たった一つのもの(謝りに)」  7,「たった一つのもの(Disintegration)」  8,「たった一つのもの(弱虫)」 黒須ちゃん†寝る  1,「CROSS×CHANNEL(ラスト前)」  2,「黒須ちゃん†寝る」 ------------------------------------------------------- CROSS†CHANNEL  1,「CROSS POINT(1周目)」 最古の記憶は。 日付さえおぼろげな、遠い霞のなか。 貴族的な気品を抱く、豪華な私室。 そこには天蓋つきの寝台も欧羅巴製の椅子もあった。 けど床に座るのが一番好きだった。 こんな日は特に。 窓から見える黒の帳は星月夜。 枠に切り取られた散在する瞬きに目を奪われる。 外界と室内を隔てる窓ガラスに、己の姿が映る。 深窓の令嬢——— 洋風のドレスに身を包む、楚々とした少女。 きみはいったい、だれですか? 少女「……太一」 透けて輪郭をぼかす……銀髪。 長くしだれて腰を包む、その先端はゆるやかに波打つ。 顔は小さい。まるで人形の頭身だ。 『浮世離れしたお顔立ちね』 誰だろう、そんなことを言ったのは。 奥様だったか、上の姉君だったか。 あまやかな声が耳にゆかしい。 誕生して十年に満たない頃の記憶は、どこか混濁して夢心地だ。 『こっちにおいでなさい、遊びましょう』 逆らったことはなかった。 少女の服、少女のマナー、少女の言葉遣い。 屋敷に働く者たちとその優雅な主たちの、高尚とも幼稚ともつかないお人形さん遊びは、退屈ではあったが不快ではなかった。 そのような理由だったと思う。 窓枠に映し出される自分の姿が、いつも少女そのものだったのは。 そう、ただ一つ記憶していることがある。明確に。 大勢の年端もいかない少女たちの中、ひとりだけ笑わない子がいた。 彼女だけは、ぼくで遊ぶことはなかった。 少女の格好で茶の相手をつとめる『ぼく』の姿は、いつも赤裸々に飾られていて。 広い庭をひとりで散策する彼女は、ちらと軽蔑するかのような仕草で目線をよこすのだった。 黒曜石を思わせる澄んだ墨色の瞳で。 動揺。 視線を向けられると、いつも心はパニックになった。 歓喜か、羞恥か。 あるいは両方か。 おおよそ動じた経験のないぼくにとって、制御できない情動の暴走は希有だ。 それでも表向きは、平然とご婦人たちに笑顔をふりまく。 わきまえるべきは自分の役目だ。 役目……人形に徹すること。 生きるために。 その人形時代、彼女と会話することはなかった。 ただの一度も。 へだてた場所に超然と立つ少女の姿だけは、つよく印象に残った。 後に知った。 彼女もまた金にあかせて買い取られた、人形だったのだと。 ひやり、と空気が渦巻く。 冷えた廊下の外気だ。 振り返ると、音もなく開いた扉の横。 彼女が立っていた。 孤高の君——— だけどどうしたことか。 目の前に立つ少女は、薄汚れていた。 違う。 汚されていた。悪辣な手段で。 裂けた衣服。白い肌を走る擦過傷。 唇の端には黒ずんだ血の筋。 ぐらり 視界が波打つ。 滑稽ではあったが幸福だった人形時代。 ぼくと彼女が、同居したことはない。 記憶が混乱している。 そう……つまり……彼女がここにいるということは……。 かしましい奥様とご令嬢。うら若い使用人たち。 砂糖菓子のように甘い日々は、記憶の中で早回しに過ぎ去る。 すべての景色は色彩を失い、くすんだ灰色へと劣化していく。 彼女が扉をあけて部屋にやってくる時代。 それは人形時代ではない。 もっと後……。 ぼくらふたりに、たった一部屋しかあてがわれない時代。 舞台は天国から地獄へ。 気がつけば、辺りの調度は失せて灰色の壁にとってかわる。 寝台は粗末に。 シーツは薄汚れ。 照明は裸電球。 床はささくれた板張り。 美しいシルクのカーテンは、雑巾も同然の身分へと下った。 つらく、重く、卑劣で、早すぎた人生の隘路《あいろ》。 その境遇が口もきかなかったふたりを束ねた。 少女「太一」 ぼくの名だ。 奥様たちは、この男らしい名前から一文字を取り、かわりに女の子そのものの一文字を付け加えた名でぼくを呼んでいた。 一姫。 風雅ではある。 ただ彼女が、ぼくをそう呼んだことはない。 太一「なにか、飲む?」 問いかけにも反応せず、彼女はぼくとの距離を詰めた。 そしてごく自然に、寝台に押し倒してきた。 少女「……」 触れるほどに近い。 隙間には、沈黙が漂う。 呼吸が止まりそうになる。 甘いにおい。 香水でも石けんのものでもない。 少女自身の体臭。 青臭い吐き気をもよおすような獣臭の下から、すべてを打ち消しつつ立ちのぼる。 柔らかな花弁に似た唇が、優しい声を押し出す。 少女「毎日、つらい?」 少し考えて、正直に答えた。 太一「うん」 少女「痛い?」 太一「痛いよ」 少女「誰も助けてはくれない?」 太一「うん。優しい人、もういないからね」 少女「違う。昔からいなかったの」 一転して、冷たく彼女は言った。 憎しみも敵意もない。 ただ冷たいだけ。 太一「でも昔の旦那様たちは」 少女「あれらは、弱いだけのものよ」 太一「……」 少女「狭い心に余裕があれば、親切に見える時もある」 少女「けど自分が苦しくなるとすぐに逃げ出す」 少女「……大切な玩具だって置き去り」 両手がぼくの肩に置かれる。 つよく、つかむ。 少女「味方はいない。誰も助けない。自分のことを自分で守らないといけない」 太一「……」 そうだ。 悲しいけど。 それが真実ってやつだ。 弱い子供は、餌食になる。 信じられないほど黒い欲望が、世の中にはある。 僕も彼女も、それを知っている。 力もないぼくらは、知恵で自分を守るしかない。 法律上『彼ら』こそがぼくたちの保護者なのだから。 けれどその保護者が、加害者であったなら? 逆らえない。 広い屋敷と敷地。 何をしようが、彼らの行いが外にもれることはない。 ぼくたちは——— 奴隷、なのだ。 白い手が頬を挟み込む。 顔が接近した。 少し、胸がどきどきした。 けど彼女は、真剣な顔をして頬の一箇所を撫でた。 少女「……タバコの火を当てられたの?」 太一「ちょっとね」 太一「でもあらかじめクリーム、塗ってたから」 自分の知恵で、自分を守らないといけない。 少女「謝る」 太一「え?」 少女「助けてあげられなくて」 戸惑った。 太一「いいよ、そっちだって……」 その先は言葉が出ない。 男のぼくより女の子の彼女の方が、つらい目にあう。 抱きしめられた。 太一「どうしたの?」 少女「太一……太一」 声が震えてた。 珍しい。いつも冷静なのに。 少女「太一……」 ぼくの耳元に押しつけられた唇。耳にわななきと吐息が吹き込まれる。 背筋を電気めいた刺激がのぼった。 腰のあたりがむしょうに熱い。 太一「っ!?」 その部分を、唐突に圧迫された。 手だ。 片手が、押さえている。 こわばった部分が、上からつよく押さえつけられる。 じっとしていられず、身をよじった。 少女「太一、わたしたちは弱い」 黒々とした瞳に輝き。 射竦められ、相づちも打てない。 少女「だから手を組まないといけない」 太一「手を?」 少女「一心同体に」 太一「一心同体……」 少女「そうすれば、多少つらくても我慢できるから」 少女「わたしは太一、太一はわたし」 唇は言葉を紡ぎながら、静かに降りてきた。 太一「あ……」 驚きと混乱と、微量の羞恥。 いりまじって動作を忘れさせる。 少女「たぃ……ち……」 甘いぬめりが口腔に流れてくる。 凍てついたぼくを、溶かす。 息をのむ。 罪跡を拒む月光色の素肌も。 高貴な華奢さも。 斜めに注がれる銀光の束に浸って、生ける彫像の如く見える神秘の四肢も。 すべて、細かな無数の傷に陵辱されていた。 だけれども。 ぼくは、それを、きれいだと思ったんだ。 少女「わたしは太一、太一はわたし」 続く言葉が、冴え冴えと記憶に刻み込まれる。 酷薄に輝く瞳にゆらぎが垣間見えた。 少女「ごめんなさい……」 少女「自分しか、信用できないから」 放送部の合宿だった。 俺たち一年生が進級し、幸せな三年生が引退して。 新しい一年生が入ってきて。 新たな面子は七人で。 でも本当は八人で。 7/8ならまあOKか、と俺は思っていた。 彼女は……どうせ呼べばすぐにやってくる。 7人集めるのに。 支払った代価は安くない。 反面、得たものは決して多くない。 むしろマイナスであったとさえ言える。 怒り。 そねみ。 憎しみ。 傷つけあって、わかたれた。 そんな合宿だ。 一因として、教員が参加しなかったことがある。 なぜならこれプライベートな部活動だったからだ。 学院には内緒のオチャメ。 公になれば、ちょっとした騒ぎになる。 けど平気だと思った。 自制さえしていれば。 彼女が監視していてくれるなら。 最悪の事態は避けられると思った。 そうまでして……俺は何をしたかったのか。 見里「……」 先輩を駆り出してまで。 そうして、悲嘆と苦痛のうちに合宿が終わり。 七人は帰路に就いた。 俺は見たくなかった。 憔悴し、倦怠し、視線を外しあって交わらせず。 そんな他人のようなみんなの顔を。 だから先頭に立った。 途中で日が暮れた。 ひどく長い時間、歩いていた気がする。 何時間も。 普段は一時間もかからない道だ。 疲労のせいか。 誰も何も言わなかった。 七つの足音だけの世界だった。 異様に静かな山道。 虫の音さえも耳に届かない。 空気までも冷たく感じさせる。 夏だというのに。 暗くても、見えたから。 道が見えたから。 俺は昔から夜目がきいた。 道を間違えたのかなと思い出した頃、町に出た。 人類は滅亡していた。 CROSS†CHANNEL 学校に行ってみようと思って、家を出た。 曜子ちゃんがいた。 太一「あれ?」 曜子「……お、おはよう」 ちょっぴり怯えている。 ……いじめすぎたかな。 太一「なにもしないよ、こんな異常事態のさなかに」 手招きする。 微笑み。 太一「そんなトコいないで、こっちにおいでよ」 曜子ちゃんは少しほっとして、近寄ってくる。 ほっぺたをつまんだ。 曜子「…………」 反射的に嫌がらせをしてしまった。 さすが、表情一つ変えない。 ポーカーフェイスが、こころなしか呆れているようにも見える。 太一「おはよう」 曜子「……うそつき」 太一「うん」 正しい。 太一「俺はアラベスクだからね」 曜子「……ピカレスク、って言いたいんだと思う」 太一「…………」 ぐいっ 曜子「いたい」 表情を変えずに痛がる。 太一「そんな単純なミスをした自分が許せない」 曜子「だったら自分をいじめればいいのに……あ、それいたい、すごく……」 全然痛そうな様子ではない。 太一「で、どしたの?」 太一「こんな昼から姿を見せるなんて珍しい。闇に隠れて生きてるんだと思った」 曜子「これ」 紙袋。 太一「女性用下着?」 曜子「いるの?」 太一「いや……どうだろ?」 俺という人間は反射的すぎた。 曜子「部屋のタンスにいくらでも入っているけど」 太一「いや、どうせだったら脱ぎたてでないと……」 曜子「……わかった」 脱ぎだした。 太一「いいって! いらんがな!」 曜子「……ん」 太一「そんなホイホイ脱がれたら、オークションで写真つきで売っちゃいそうだ」 曜子「……いやかも」 太一「四枚のショーツを頭にかぶりつつ自分でも履いて腕輪がわりに両手首にも通して、饗宴にふけるかもしれぬ」 曜子「それならいいけど」 いいのかい。 しれっと言ったぞ。 太一「あのねえ……もっとシャンとしようよ。三年生なんだろ」 曜子「してるもの」 太一「してない。なんかぐんにょりしてる」 曜子「……心外」 曜子「太一はぽやっとしてる」 太一「ぽやりたい年ごろなんだ。思春期なんだよ」 と、紙袋の中身を確認する。 太一「……サンドイッチ?」 かなり大量にあった。 曜子「生ものは可能な限り保存食にしたので、あまった分で」 太一「作ったのね」 太一「……そうか、人がいないと野菜や果物が」 曜子「当面は。ただ畑や温室をいくつか管理しておくから……二人が生きる程度ならどうということは……」 太一「八人だよ」 指を立てて言う。 太一「そーいう考え方はよくない。人間が壊れる」 太一「俺たち、まっとうに生きるって決めただろ?」 曜子「……うん」 素直にうなずきはするけれど。 結局、俺の言うことをそのまま機械的に実行するだけなんだよな。 どうも癪《しゃく》だ。 太一「ありがとう。もらっておくよ。ちょっと量が多すぎる気がするけど」 曜子「…………」 顔面筋肉が(指の下で)少し動いた気がする。 太一「まるで二人分あるかのような量だね」 曜子「…………」 顔面筋肉が(指の下で)少し動いた気がする。 触れていなければ、その微細な表情変化はとても読み取れない。 太一「……」 太一「まるで二人分あるかのような量だね」 もう一度言ってみた。 曜子「…………」 顔面筋肉が(指の下で)少し動いた気がする。 ははーん。 邪悪な考え。 太一「この二人分のサンドイッチ……これを俺は是非……」  ・一人で食う  ・誰か他の人と食う 太一「一人で食うよ。ありがとう」 曜子「……………………」 顔面筋肉が弛緩した。 太一「やー、うまそうだ」 さっそく一つパクついた。 うむ、うまい。 曜子「……ぃじわる」 小さくため息をついた。 太一「でも弁当だったら、机に置いておいてくれてもいいのに」 曜子「発電所に……行けなかったから……」 太一「発電施設? に行けなかった?」 意味がわからない。 曜子「…………」 黙った。 くそう。 いつものことながら、概要しか語らない。 自分が理解できる最低限の言葉で、語ってくるからだ。 問いつめることはできるが、こちらの質問や疑問を的確にしないと理解に辿り着くまで時間がかかって仕方ない。 太一「えー、つまり確認してきたんだ? あんな遠くまで」 曜子「危険だったから」 太一「ああ、そう……」 確かに発電所がどうこうなったら危険である。 太一「で、その報告に来たんだ」 こく、と頷く。 太一「そうか……お疲れさま」 こく、と頷く。 ちょっと嬉しそうだ。 手を離す。 彼女の白磁の頬が、すこし赤く腫れていた。 にしても。 行けなかった、とはどういうことだろう。 崖崩れがあって物理的にたどり着けなかったとか。 施設の運用には必要を満たしているが、その周囲はきっちり難儀な土地だからなぁ。 でも安全と言い切るってことは……確認が取れたってことで。 んー。 太一「その行けなかったってのは?」 いなくなっていた。 ちょっと目を離した隙に。 太一「はぁ……」 と、坂を歩き出すと。 太一「むっ?」 タイヤがキュッと地面を擦る音。 危険信号。 太一「させるかぁぁっ!」 華麗に飛び退いた。 ドカーン! 太一「ぷろぺらららららららららっ!!」 俺は回転した。 七香「にゃいーーーーーーーーーっ!?」 ワイヤーアクションばりに吹っ飛んだ。 顔面から大地に突っ込むもなお勢いは失われず、シャチホコみたいな体勢で爆走し道路脇の樹木に激突した。 七香「ごめん太一!!」 太一「……なぜ我が名を知っている……」 七香「忘れちゃったの?」 太一「え?」 少女と目が合う。 七香「あたしのこと、忘れちゃった?」 太一「ドキ」 忘れた。 俺は記憶喪失に。 昔、命を助けたとか。 ありガチ。 ※ありガチ=太一語。ありがち+ガチンコの意。定番中の定番に真正面から挑む姿勢。 太一「俺が許容できるのは、すこしふしぎレベルだぜ? 君が十年前に結婚を約束した幼なじみちゃんだとしてもだ」 固ゆで気取りで告げた。 七香「ふっふっふ」 可愛い娘だ。 ちょっとヘンだけど。 というか、明らかにヘンだろう。 だけど可愛かった(駄目人間)。 出会いのセクハラとしゃれ込みますか。 太一「とう」 むにゃ 乳をゲットした。 七香「……」 太一「……んー?」 もにゅ、むにゃ 感触はある。 だが……なんだ、この感覚は。 太一「まさかシリコン? シリコンだとでも?」 七香「アハッ」 びたーん! 太一「アハッ」 飛ばされてばかりだ。 太一「……で、君の名は?」 七香「たちなおるのはやいね」 太一「慣れてるから」 七香「七香と申します」 太一「七香ちゃんか」 七香「うん。七香ちゃん」 スカートを持ち上げた、挨拶ポーズがゆかしい。 俺も同じ格好をする。 鏡合わせ。 ……の馬鹿二人、という光景になった。 太一「……とにかく学校行くんで、歩こうか」 七香「おっけー」 見たことのない制服。 この近隣の学校じゃあないな。 運動神経はいいようだった。 こちらが徒歩で低速なのに、よろけもせずに併走する。 見るからに、元気《げんき》溌剌《はつらつ》幼なじみ美少女といった案配だ。 毎朝起こしにきてくれたり。 太一「ふふふ」 素敵だ。 七香「あんまり動揺してないのかな?」 太一「ん?」 七香「世界がこんなことになっちゃって」 太一「……してるさ」 してないはずがない。 太一「外に出してないだけ」 太一「俺はね……人が少なければ少ないほど、本質的になっちゃうんだ」 七香「…………」 太一「今はまだみんながいるって知ってるから、保たれてるけどね」 七香「そっか」 七香「太一は、自分が嫌いなんだね」 太一「……嫌いっていうわけじゃないけど……わからないな」 太一「本当に、わからなくなる。些細なことに思えてきて」 太一「……少しだけ、切ない」 七香は悲しげな顔をした。 太一「おっと、こりゃいかん」 条件反射的におどけてみせる。 太一「女の子を泣かせる時は、セクハラでって決めてるんだ」 目元をぬぐう。 七香「……泣いてないってば」 太一「泣きそうだったから」 七香「セクハラでってのが最低だなぁ」 太一「愛情表現だい」 七香「Hな悪戯が?」 太一「そうさ」 胸を張る。 太一「美しいものを愛でる気持ちで、Hな悪戯をするんだ」 太一「だって個性は、それがどんなに定型であっても、その人だけのものだから」 太一「人間らしいということだから」 太一「それに俺も、真剣な顔で人を愛でる資格なんてないしなー……」 なんか語ってしまった。 俺だって人間だから、ごくまれに脈絡なくガードがゆるむ時はある。 やれやれだ。 七香「……ふーん」 七香「その意見は、はじめて聞いたな」 太一「……はじめてって?」 太一「ほんとに前に会ったことがあるの?」 七香「あるよ」 うら寂しげな顔。 太一「いつ?」 七香「さあ?」 太一「……秘密ってわけだ」 七香「そうなるかな」 太一「ふふふ、白状しないとスカートをめくってやるぞ」 七香「そしたら、またつっこんであげる」 七香「太一は好きだもんね」 太一「……ぬぅ」 手強い。 セクハラに動じない相手だ。 太一「……やーめた」 七香「おや?」 太一「動じない相手のスカートめくってもつまんない」 太一「あーあ、表層的で空虚なダイアログを身上とする黒須太一様が、どうにもシリアスなことを話してしまったー」 と、歩き出す。 七香「寂しいね」 声はずいぶん背後から聞こえた。 違和感。 振り返る。 ありえない距離だった。 三秒前まで併走していた七香だ。 二十メートル。一瞬で移動できる距離じゃない。 太一「な……」 七香「……太一ぃ!」 叫ぶ。悲痛な響き。胸を打つ。 今度こそ、七香は泣いていた。 七香「それがいいことなのかどうか、あたしにはわからないけど!」 七香「世界を、すべてを元に戻したいって望むとしたらっ……」 白い指先が俺をびっと指す。 いや、俺の背後だ。 学校。 いや……山か。 合宿に行くときに使った山道がある。 ほとんど獣道だが、山頂に出るにははやい。 その先には。 祠がある。 何が祀られていたのか、わからない。 古く、朽ちた、小さな祠だ。 かつて、まつろわぬ神を奉じていたかもしれないその場所に。 今は近寄る者もない。 そこに何があるんだろう。 些細な疑問を返すべく、七香に視線を戻す。 彼女はいなくなっていた。 自転車とともに。 太一「…………」 蝉も鳴いてない、静かな新学期だった。  ・祠に行ってみる  ・学校に行く いくつかの坂を越えて、商店街に。 人影はない。 田崎商店が見える。 太一「……」 ある種の期待とともに店内をのぞく。 だが、そこに人の息吹は感じられない。 太一「……不在か」 田崎食料はここしばらく、不在続き。 この地域密着型ショップの店主 田崎吾一郎氏(47歳独身)は無類の鉄道マニア。 よくふらりと店をあけ、遠方の土地にローカル線の写真を撮りに行く。 たまに写真を見せびらかされるが、ちっとも楽しくない。 こっちは電車に抱く幻想など持ち合わせない今っ子なのだ。 店は店主不在時もあいている。 道楽的な無人商店だ。 20代の頃JRへの就職に失敗し時代遅れのヤンキーへと失墜した氏だが(三十路までこの愚行は続いた)、ご両親の死後しばらくを経て、険の取れた豊かな顔つきへと変わっていった。 遺産以外の何が、元暴走族の粗暴な鉄オタを善人に変えうるというのか。 とにかく目先の現金にだけはありあまっている氏の店は、近隣の住人に対してはいくらでもツケてくれる希有な地元密着型店舗なのである。 だから人がいないのは珍しいことではない。 そういえば、ちょっと喉が渇いたな。 店の奥に行って、緑茶のボトルを一本取ってくる。 メモ帳を取り出し、ペンを走らせる。 『9/7、大緑茶、130円……黒須太一』 壁にぺたりこ。 見ると、もう何枚ものメモが張ってある。 『9/3、野菜ジュース健々GOGO、110円……山辺美希』 『9/3、マグナムライチ、110円……桜庭浩』『ピリッと辛いです』 『9/4、ペットボトル天然水、140円……宮澄見里』 『9/5、野菜ジュース健々GOGO、110円……山辺美希』 『9/5、キングドドリア、110円……桜庭浩』『あんまりおいしくなかったです』 『9/6、野菜ジュース健々GOGO、110円……山辺美希』 『9/6、胡椒警部、110円……佐倉霧』 合宿中はいろいろ買いにきてたんだっけ。 太一「……」 合宿から帰ってくると、町から人はいなくなっていた。 テレビ、ラジオ……あらゆるメディアが沈黙し、また電気や水道などの施設も止まっていた。 皆、麻痺していた。 棚上げするには重すぎる感情のやりとりが、直前にあったからだ。 疲れて、話し合う気力もなく。 結論を保留したまま、別れた。 そして今日。 新学期。 俺は普通に登校しようとしていた。 扉を開く。 遮断されていた人の気配が溢れて、さらりと頬を撫でた。 窓際の席。 立て肘をついて座っている少女が、ちらと一瞥をよこす。 美しい長髪。 それは神経質なほどの手入れによって保たれている、危うい整然。 近くで見るとわかる。 鉄壁の管理は、ほつれ・枝毛の一本たりとも許していない。 触れると軽く、指で梳けばさらさらと砂のように流れる。 はじめて会ったとき、彼女は無敵の鎧をまとっていた。 近寄りがたい雰囲気という、見えない甲冑。 理由はいろいろあったのだろう。 ここが群青学院であること。 けたたましいクラスメイト。 死人のようなクラスメイト。 ただ自らの世界しか見ていない虚ろな少年少女たち。 まともに会話が成立する者など、数えるほどしかいない。 各所に立つ、感情を抱かない警備員たち。 躁狂めいて戯画化された教室世界。 屍の山に、ゼンマイ仕掛けの玩具を放り込んだが如く、悪辣な世界観。 適応係数46、桐原冬子がその中で生きるには、残された54%を守るものが必要だった。 他者を疎外することで、保たれる自意識。 その意味で、入学当初における彼女の選択は正しかった。 今の冬子は、当時の彼女と似ている。 虚飾と、虚勢と、虚栄心。 それが桐原冬子という人物の全てと言えた。 太一「へえ、来てたんだ」 冬子「……」 視線が窓の外に投じられる。 そらぞらしいほどのタイミングで。 無視する気まんまんだ。  ・屋上に行く  ・冬子と話す 太一「早いじゃん」 冬子「……」 太一「しかもまた私服通学か」 群青に校則はあってなきに等しい。 なにか差し障りがあれば、警備員の出番だ。 学生が自らを律する必要などない。 だから制服着用という決まり事は、まるで意味をなさない。 いかに天下群青とはいえ、年頃の少女をひんむいて制服に着替えさせるわけにはいかないからだ。 他の者と自らを分断するための。 それは冬子の確固とした抵抗に違いなかった。 太一「萌え萌え制服姿が見たいにゃー」 冬子「……」 うーん。 こうまで無視が似合うキャラも珍しい。 冬子はこんな状態でいるのが、もっとも絵になるわけで。 俺は隣に座って、じっと横顔を見つめた。 飽くことなく、ずっと。 太一「……」 冬子「……」 太一「…………」 冬子「…………」 太一「………………」 冬子「………………」 太一「………………………………………………………………」 冬子「……なんなのよもうっ!」 いきり立った。 太一「こら、芸術品が喋るな」 冬子「何言ってるの?」 太一「美しくあれ」 冬子「わけわかんないっ!」 太一「おまえは語尾が〜だわ、とか〜ですわ、とかオバサン臭いんだからあんま喋るなよイメージが崩れる」 冬子「ぬぁんですってーっ!?」 ダメだこりゃ。 ぬぁんですってーとか言い出したよ。 芸術の終焉だった。 太一「フー、興ざめだな」 世界正義という強圧的な概念とともにキレイさっぱり根絶されたであろう米国人のように、肩をすくめてみせた。 太一「おまえに芸術の破壊者という二つ名を与える」 冬子「いらないっ!!」 太一「よかったな。ピカソもそんなこと言われてたぞ。またすごいのとならんだな」 冬子「い!! ら!! な!! いっ!!」 口笛を吹く。 太一「こわいですわ〜」 冬子「ですわなんて言ってないでしょっ!!」 太一「そうエクスクラメイションマークを二つセットでばかり使うなよ」 冬子「どんな諫《いさ》めかたなのよ!!」 太一「ぷっぷくぷー」 冬子「バカにしてんのっ!? バカにしてるのよね! バカにしてーーーーーっ!!」 着火完了。 冬子「ふつー会話ってのは友好の証じゃないわけ? あんたのはただバカにする目的でアプローチしてるだけじゃないのよ! おバカなあんたがどうして私をバカにできるの!? 信じられないし信じたくもないし信じさせたくもないわよ!」 太一「よく燃える」 あなたは最高です。 冬子「○×△□$#%&○×△□$#%&ッッッッッ!!」 うっとりと耳を傾けていると。 冬子の右手が霞んだ。 はっ!? ばちーん!! 太一「ぐふっ」 不意の平手うち。 叩き倒される。 座る者のない机と椅子を巻き込んで、盛大にすっ転んだ。 太一「いててて」 太一「さすがは合戦格闘術ハラキリ拳、隙がない」 冬子「だいたい、あんたたちみたいなピッパラリーと私は住む世界が違うの! 私がここにいるのは間違いであんたたちが私のそばにいることも間違いなの!」 ※ピッパラリー=冬子語。頭の弱い人たちの意。 太一「意味が重複していないか?」 冬子「るさいっ!」 太一「非処女のヒステリーは見にくいばかりだぞ」 冬子「っっ!?」 顔がひきつった。 冬子「あ、あ、あ……あんたが……それを……言うわけ?」 太一「まずいですかのう?」 耳クソをほじりながらすっとぼける。 冬子「まずいもなにも……」 低くくぐもった声で。 冬子「遙かなる次元を越えて……」 ゆっくりと顔をあげて。 冬子「出て行けーーーーーーーっ!!」 めでたく叩き出された。 この扉をあけたら、屋上がある。 そこにはきっと、彼女がいるだろう。 扉を開くのに、少しだけためらいがあった。 失敗するとわかっていた合宿。 無理を言って先輩を駆り出した。 それが彼女を傷つけることさえ、予想していた。 予想していたけど、考えないようにして。 そして今また、彼女……先輩を利用しようとしている。 己が心の平安のために。 今さらどの面さげて、と思いもする。 が、人間は気分の生き物で、今朝はそんな気分だったから。 自分への説明はそれで充分だ。 けど先輩は、どう思うだろう。 少し気になってしまった。 ノブをひねって、鉄扉を押し出す。 風が吹いた。 ちょうど踏み出た瞬間に。 だが不思議と、晴れ晴れとした気分にさせてくれた。 目線の先、広々とした給水塔が階段とは別にあって、その土台を共有して、大きなアンテナが立っていた。 太一「……へえ」 まだ未完成のアンテナ。 足りない部品と知識。 彼女はそれらを前向きな気持ちでもって補いながら、少しずつ形にしてきた。 いや。 後ろ向きの気持ち、なのかもしれない。 そういうことは、往々にしてあるのだから。 合宿前。 彼女は一人だった。 部活はその逃避する最後の砦だったことを、俺は知っている。 そして今また、部活は逃避の砦のままである。 宮澄見里。 見里先輩は今、風に抱かれてアンテナと立っている。 太一「せんぱーい!」 呼びかけると、扇状の毛髪が大きくうねる。 群青色の大空を泳ぐ漆黒のケープ。 見里「ぺけくん?」 耳を澄ませば、彼女だけが呼ぶ俺の名が届く。 柔らかな紅唇の動きとともに。 突風の中で囁きを聞き取れたのは、実のところカクテルパーティー効果でしかないのだが、何か先輩と俺との特殊性を夢想させてやまない。 幸せな錯覚というやつだ。 そのたもとに歩み寄る。 先輩は微笑んでいる。 俺も自然、ほころぶ。 視線が睦み合うほどに継がれる。 そして俺は、もの柔らかな思索の胞衣に包まれつつ、宮澄見里という閑雅なる奇蹟によりそう切なる真実をマリアナの海淵にも増して深くふかく悟り上げるのである。 ……………………パンツ見えてる。 見えてる見えてる! すっごく、すっごく、見えちゃってる! それはもうパンチラの国ですかってくらい! しかも本人気づいてない! こういうのが一番たまらないよ! ピーピング! ピーピング!(警報) パンチランド共和国、建国万歳! 素晴らしき国! いい国! 永久に! 見里「……………………?」 見里「…………………ん?」 見里「…………ぺけくん?」 見里「ぺけくんぺけくん?」 太一「はっ?」 見里「もしもし? どうかしましたか?」 しまった、また意識が飛んでしまった。 太一「ああ、いえ、異常ありません。ええ、爪先に至るまでです」 見里「でもヨダレ垂れてますよ?」 太一「切腹します」 シャツを脱ぐ。 見里「ちょっとちょっとっ」 見里「どうしてヨダレごときで切腹です?」 太一「先輩を汚しました」 見里「よくわかりません……」 その方がええです。 見里「それよりどうしてここに? 授業はどうしたんです?」 授業だって? 我に返って、先輩の目をじっと見つめる。 太一「…………」 見里「あ、わかりました。サボりですね」 指を立てる。 なんてこった。 いつもの彼女だった。 見里「図星でしょう?」 太一「は、まあ……」 正気に、常軌を。 逸していた。 彼女は受け入れていない。 人の消失した、この現実を。 他はすべて正常。 見里「サボるなんて感心しませんねー」 太一「…………」 昨日。合宿が終わったあとの、別れ際。 彼女が漏らした言葉から受けた印象は、当たった。 見里『明日、部活がありますから』 そんなシンプルな形で。 見里「夏休みも終わって新学期、気が抜けたコ○コーラみたいな気持ちを引きずっていてはいけません」 太一「…………」 見里「うまずたゆまず姿勢を正して授業にそして課外活動に励むのが、日本男児の美徳というものでありましょう」 太一「…………」 呆けた者が、傍目の印象に反して幸福であるように。 本人だけは幸福なのだ。 見里「とはいえ、初日に授業があるわけでもありませんし、これくらいにしておいてあげます」 そうだ。 幸せなら、それでいい。 誰彼にとって望む自分が、常に高潔であるとは限らない。 価値観を人にを強いるほど、俺が偉いわけでもない。 むしろ俺こそが欠陥品じゃないか。 許容して、協力しよう。 彼女の逃避に。 一人だった俺を……放送部に誘ってくれた人だから。 見里「それに、実はわたしもサボリです」 先輩は小さく舌を出す。 俺は渾身の意志で、己に命じた。 演じろ。 太一「ぎゃふんっ」 先輩は目を細くする。 いつもの笑顔。 見里「ちょっとお待ちください」 おりてくる。 彼女の爪先が床を踏む頃には、もとどおりの二人。 見里「ハーイ!」 太一「先輩、聞いてください!」 究極格闘技カラデ、その正拳側中段突きの構えを取る。 ※正拳側中段突き=真横への正拳。カラデにおいては全方位の攻撃は基本であり、特に正拳突きは背後をのぞく広範囲を制する。同様にカラデには通常格闘技では想定されない、真上ならび真下への技も存在する。 ※そんな奇天烈な攻撃をしてくる相手が地球上の生命体でないのはまず確実だが、備えあれば憂いなし。万一そのような敵を前にしたときはカラデのみが唯一抗しうるのは確実であり、まさにある意味最強。すべて世はメタゲームなのである。 四股を踏む相撲取りみたいな格好だが気にしない。 見里「な、なんですか?」 先輩も何かわけのわからない構えを取る。 太一「今までさぼっていた部活に参加したいと思いました、オス!」 見里「なんですってー!?」 太一「スク水からアンスコまで、黒須太一はあなたの部活ライフをいやらしくサポートします!」 見里「想像するだにめまいがしますね!」 太一「恐悦!」 見里「誉めているように聞こえましたか!」 太一「他に理解のしようがありませんでした!」 見里「すっごく頭いいです! あまりにも良すぎたため、一回転してもはやおバカちゃんに戻ったのではないかと疑いました!」 太一「天才と我々は紙一重だと言いますからナー!」 変なポーズのまま、変な会話に興じる二人。 うん、これぞ部活。 太一「さあ、オイル塗りからバストマッサージ、野いちご狩りまで幅広くこなすこの愛肉奴隷めに、なんなりとお命じください」 見里「まあ」 調子に乗ってついHなことを口走る。 先輩はHなことに厳しいのだ(鈍いけど)。 幸いなることに、先輩はにっこり微笑んだ。 今のセクハラ発言に気づかなかったのか? 天使の口唇が父なる神の慈愛を感じさせて告げた。 見里「ここからいなくなれ」 太一「中国株に手を出したのが凋落《ちょうらく》のはじまりだったーっ!!」 フェンスの向こうに広がる無垢なる青空に生々しいことを叫んだ。 ま、机を食べないことで笑いを取れる中国人とか自体もういないけどな。 太一「アンテナ、だいぶ形になりましたね」 見里「うん。頑張りました」 平然と会話は続く。 ことほどさように、俺と先輩の関係性はとても強固なのだった。 世界が滅亡したくらいでは壊れません。 太一「もう完成ですか?」 見里「……まだ全然なんですよ、これが」 業者が組み立ててくれるはずだったアンテナ。 搬入だけされて、うち捨てられた。 見里「専門家じゃありませんし、だましだまし組み立ててます」 見里「本体はいいとしても、配線や調整は手つかずですし」 太一「あらら」 残念ながら、俺にもそういう知識はない。 太一「……手伝えること、いやらしいサポート以外はなさそうですね」 見里「いやらしいサポートとかしたら停学にしますよ〜」 なでっこなでっこ 頭をなでっこされる。 太一「うるきゅー」 喉が鳴る。 見里「よしよし」 太一「うーうー」 見里「そういった擬声語や擬態語ティックな言葉を頻繁に口走りつつ、わかりやすく赤面したりヤキモチ焼いたり過去のトラウマを適度にあかしていってくれるだけでいいんですよー」 太一「すっごい即物的な俺になっちゃいそうです!」 見里「大衆がそれを望むんですよー」 太一「大衆なんてっ、嫌いっ!」 もういないけどな。 ちらと見やった先輩の手が、傷だらけなことに気づく。 太一「うわー!」 手を取る。 太一「傷だらけだ!」 見里「え、ああ、そうですね……」 太一「一人でやるから」 見里「…………」 気まずそうに目をそらす。 太一「みんなでやった方がよくありません?」 見里「みんなでって……」 先輩は一瞬、絶句したようだ。 太一「ホラ、部活ですし。その方が感じ出るかなって」 見里「で、でもですね、それはさすがにきついのではないかと」 太一「やりようですね。そいつを攻略するのにもっとも適切な駒を使えばいいだけのことでありましょう」 太一「三すくみにおけるナメクジを擁したカエルが蛇をも使役するに至ること示唆しているのと同じく、的確な人材によって急所を突くことが人間社会においては肝要であるわけでして」 太一「理論的には、自分が支払える代価で手に入る駒をもっとも友好に使える局面に冷静にぶつけていけば制覇は成立しうるわけですから」 太一「無論、チャートが進むに従って管理の煩雑さと管理者の育成・配置といった新しい要素も混入してくるわけですが」 太一「ここいらになってくるとマキャベリズムにも触れる必要が出てきます」 太一「また、かのマインカンプで記されているようなオープンな政治詐術というか演劇・ドラマ的な高揚感を与える手段の存在について、 あれが許容されるのは受け手側が幸福なる錯覚を望んでいるという側面もありますので考慮することがマイ第三帝国の結実のためには……」 見里「はわわっ」 先輩はがくがくと震えた。 見里「ぺけくんがすっごく邪悪っぽいです……」 しもうた。 空疎な饒舌さが求められている昨今の僕ら事情にあわせて無駄な読書ばかりしてきたせいか、ついリコーダー的に再生がかかってしまった。 先輩の前では、素直な僕でいいのに! ということで誤魔化すことにした。 太一「ああっ、頭痛がっ!」 見里「大丈夫ですかっ?」 太一「く、苦しい……母さん!」 見里「ああ、しっかり!」 先輩の胸に倒れ込む。 太一「なんか今へんな外宇宙の超知性存在オムルスがエッセネ派の叡智をもってエルゴ領域を越え並列的宇宙史観を浸食してきたんですー!」 見里「よくわからないですけど、良い子のままでいてくださいー!」 太一「出て行けー、僕の中から出て行けー!」 見里「でていけー」 加勢してくれた。 太一「うおー」 太一「ふう……助かったようです。ついでに大宇宙の霊的危機も解決しました」 見里「すごく早い展開で助かります」 太一「いやなに。はっはっは。第七世界から感謝の念が届く思いであります」 見里「すこしふしぎ……」 太一「そんなわけでいつもの太一です」 体操していつもの太一をアピール。 見里「お疲れさまです」 太一「さあ、何をしましょう?」 見里「そうですねぇー。じゃあ……」 見里「冷たい飲み物でも持ってきて下さいますか?」 太一「はい! ……って、それだけ?」 見里「ええ。他には特に」 太一「んー」 思案。 太一「もしかして、邪魔だったりします?」 先輩は慌てた様子で、ぱたぱたと手を振った。 見里「そんなことないですよ。ただ……わたしが個人でやっていることですし」 見里「他の人を巻き込む必要ないなって」 見里「……」 押し黙る。 太一「……」 先輩の部活は、彼女だけのもの。 そんなフレーズが脳裏をよぎる。 見里「わたしは好きなことやってるだけです」 見里「皆とおんなじに」 太一「みんな……好きなことやってるわけじゃないスよ?」 見里「そうですか?」 太一「そう思います」 たとえば冬子。 学校に来る必要があるのだろうか? 合宿から戻ってきたら、人がいなくなってて、文明からも切り離されて。 無線も電話もネットも通じなくて。 水道も電気もガスも使えなくて。 その原因さえわからない。 とくれば、無力なボーイミーツガールである俺たちに、できることは日常の反復しかない。 冒険も探求もできない。 そうはいかない。 心は麻痺するものだからだ。 群青の者は、特にそう。 現況下において、精神にダメージを受けていない人といったら……曜子ちゃんくらいのものか。 あと……あの娘。 ……はて? わからない。 わかるのは。 曜子ちゃんと似ているような、別物のような。 そんな違和感だけだ。 『今』の俺では、それが限度だった。 さておき。 曜子ちゃんが、人類が消失したくらいで動揺するはずない。 太一「今までの生活を、繰り返すしかできないんですよ」 見里「……」 先輩は深刻な顔をした。 俺はことさら相好を崩した。 太一「だから俺も通学とかしてみました!」 太一「あとハラキリ冬子も来てましたよ」 見里「桐原さんも?」 太一「座ってぼんやりとしてました」 見里「そうですか……」 太一「まあ、桜庭とか友貴とかは、そのうち補正されていくと思いますけど」 太一「あいつらはなんだかんだいって健全に近いんで」 見里「……そうだといいですねぇ」 少しためらって、目尻を下げる。 無理しているとわかった。 頑張って、明るく振る舞っている。 胸が痛んだ。 太一「……じゃあ、何か手伝えることがあったら言ってください」 見里「あ、はい、そのときは」 見里「是非に」 夏日の下。 先輩を残して、俺は去った。 鉄扉をこじあけて校舎に入る。 振り返ると、彼女はずっと見送ってくれていた。 蝉がうるさい。 こんな暑いのに。 奴らはいつだって本気だ。 太一「しかし」 どうするかな、これから。 屋上が炎天下となると、涼める場所はさほどない。 手近な教室をのぞいてみると、案の定授業中だった。 一年E組では、まちこ先生が授業をしていた。 太一「……」 彼女とは、表層的な心の交流さえ結べなかった。 あまりにも普通すぎたのだろう。 今はもう他人だ。 とにかく、このまま廊下をウロウロしてたら誰かに見つかる。 人気のない学食で、食券を買う。 部室へ。 友貴が漫画雑誌を読んでいた。 軽く会話をかわす。 途中、マンモスが通過して大騒ぎとなった。 きゃつが過ぎ去ったあと。 友貴「あぶないあぶない」 みゆき「カーテンつけた方がいいですよねぇ、廊下側の窓」 友貴「禁止されてるんだよ。学校もよくわかってるよな」 太一「いい手がある」 みゆき「……」 友貴「……」 太一「あー、諸君らが俺をどう思っているかは知っている。だがこれはつまらないギャグではなくマジでいい手なのだ」 みゆき「どんなんです?」 太一「友貴、マシン使えるようにしてくれよ。あとデジカメ」 友貴「はーん?」 ……。 …………。 ……………………。 太一「という感じでどうだ」 友貴「カムフラージュか、へー」 フルカラー印刷した『無人の室内』画像を、窓ガラスの内側に貼り付けた。 視点が多少ずれてしまうが、パッと見るくらいならある程度はごまかせる。 友貴「うん、これならばれないかも」 太一「わはは」 誇る俺。 そこにみゆきがトイレから戻ってくる。 太一「トイレどうだった?」 みゆき「あーんっ!」 泣いた。 みゆき「トイレだなんて一言もいってないのにー!」 太一「ハンカチで手をふきふきしながら戻ってくれば誰だってわかるわい!」 友貴「だからさ」 みゆき「気がついても言わないでくださいよぅ」 太一「だめだだめだ! 隙が多すぎる!」 太一「多すぎてもダメ! 少なすぎてもダメ!」 友貴「なんの基準なんだ……」 太一「正しい淑女のガイドライン」 みゆき「なりたくないですよぅ」 俺は愕然とした。 太一「な、なんてふしだらなことを」 太一「折檻だな、折檻! 折檻! 折檻!」 騒ぎながらみゆきの周囲をまわる。 みゆき「ううう」 怯えるみゆき。 くそう、地味なやつめ。 その地味さが俺をかき立てる。 太一「折檻! 折檻! 折檻!」 とスカートをゆっくりめくっていく。 友貴「お、おいおい」 太一「もし毛糸のパンツをはいていたら、汝の罪は許されるであろう」 太一「しかーし、もし薄手のショーツなどを生意気にも着用しているようであればぁ」 みゆき「あううぅぅぅっ」 霧「ちょやーッ!」 この声は? 太一「がああっ!?」 霧「この女の敵っ!!」 背後からの踵落としですかそうですか。 ゆっくりと俺の意識は混濁して……いく直前で復帰した。 べち 気絶していれば、床に顔面を叩きつける苦痛も感じなかったものを。 太一「……くぅ……痛いじゃないか、下級生」 ギロッという感じの視線が、俺を射竦める。 霧「どっちが悪いのか、一目瞭然ですから」 みゆき「あ、あの、あなたは?」 霧「通りすがりの転入生」 太一「おうおう、絵になる光景だのう、友貴よ」 友貴「頼むから僕が仲間であるかのように話しかけないでくれ」 友貴は冷たいので我関せずの立場を取った。 太一「ちっ、偽善者め」 まあいい。 太一「おい下級生、葬り去る前に名前くらいは聞いてやるぞ」 霧「痴漢!」 太一「俺を置き換えるだと!?」 友貴「果てしなくバカだね」 霧「先生に報告しますから」 太一「ほ、先生とな。どの先生に泣きつくつもりかな、おぜうさん?」 霧「誰にでも」 霧「だってこんなの、セクハラじゃない!」 友貴「……黒須と知り合ってまだ間もないけど」 友貴「セクハラという単語を聞く回数が飛躍的に増えて嬉しいよ。ありがとう」 太一「気にするなマイフレン、人徳のなすわざだ」 霧「堂々とスカートめくろうとするなんて……最低!」 太一「へえ。偉いんだ」 太一「でそれを、先生に言いつけると?」 霧「そうよ!」 太一「なあ、正義のヒロインちゃんはこんなことは考えないのかな?」 太一「なぜ俺が白昼堂々と、しかも人前でスカートをことさらゆっくりめくろうとしていたか」 友貴「……単に反応を愉しみたかったダゲァ!?」 正拳側中段突き。 太一「そしてなぜこの風紀委員長・島友貴がそれを止めることもできずにいたのか」 友貴「はい!?」 霧「ま、まさか……」 太一「そのまさかさ」 太一「すなわちそれは、俺がこの学院で絶大な権力を有していることを意味している!!」 太一「のう、友貴よ?」 友貴「だからこっちに振るなと」 霧「あんたたちっ!」 友貴「おいっ! 僕は違うぞ!」 霧「許さない。絶対絶対許さない!」 友貴「そもそも風紀委員ってのが違うダボァ!?」 正拳側上段突き。 太一「ふっふっふ」 ポケットに手をつっこみ、瞑想するかのように目を閉じ、名悪役の物腰で、 太一「すなわちそれは、俺がこの学院で絶大な権力を有していることを意味している!!」 語尾とともにくわっと開眼した。 友貴「それさっき言った」 太一「……」 友貴「使いどころが少し早すぎたんじゃないかな、さっきの」 太一「…………」 霧「群青学院にはいじめはないって聞いてたのに……」 みゆき「あの、いじめられていたわけではないので」 霧「……え?」 みゆき「あの人たちは、いつもああなんです。悪気ないんです」 友貴「たちって……」 友貴はげんなりした。 太一「たちって……」 俺はげんなりとした。 友貴「おまえがげんなりとする理由がどこにあるんだよー!」 太一「俺は偽善者じゃない!」 友貴「僕だって違う!」 太一「やるかー!」 もみあいに。 友貴「薄味マキャベリスト!」 太一「シスコン殺人事件!」 友貴「低学歴低収入!」 太一「アースデプリ!」 友貴「株の敗残《はいざん》者!」 太一「かかか株のことは言うなー!!」 霧「仲間割れをっ!?」 みゆき「あーあ……」 友貴「おまえだって人のこと、シスコンオナニーのプロとかあちこちで吹聴しただろ!」 太一「ああ言ったさ! 特に女の子に言ったさ! 皆もう大喜びさ!」 友貴「あれからたまにプロとか呼ばれるようになったんだぞー!」 太一「事実だろうが!」 友貴「こっちだって事実だ!」 太一「くっそー!」 友貴「なにをー!」 ポカポカポカポカッ!! そして。 俺たちは自滅した。 友貴「ううう」 太一「ぐぐぐ」 廊下に仰臥する二人。 みゆき「……保健室行きますか?」 太一「さ、さっきの正義の味方は?」 霧「佐倉霧。正義の味方じゃない」 少女は俺たちを見下しながら言った。 霧「……そしてあなたたちも、悪なんて美意識のあるものじゃないことがわかった」 ぶわっと友貴が滂沱《ぼうだ》する。 友貴「ぼ、僕は関係ないのに。太一のせいで僕まで……」 友貴はカブトの幼虫みたいに丸くなった。 友貴「いいもう。引きこもる」 しくしく泣き出す。 みゆき「そこまで……」 霧「この子もいいって言うし、その無様さに免じて今回だけは見逃してあげます」 太一「……体が動くようになったら……おぼえてろよ……霧とやら」 霧は冷笑した。 霧「どうぞ、ご自由に」 佐倉霧との出会いだった。 教室に戻る途中、処女がうずくまっていた。 美希だ。 山辺美希。 太一「おーす」 美希「っ!?」 美希は立ち上がる。 素早い挙動。 ゆっくりと振り返った。 美希「あ、先輩……どぉも」 顔をあげて会釈。 いつもと変わる風でもない美希だ。 少し違和感。 美希は、こんな強かったのだろうか? もともと素質はあったようだが、一回りも二回りもたくましくなったような。 そんな感じがする。 太一「なにしてんの?」 美希「そーじです」 太一「俺もやったぞ、そーじ」 美希「表面的な言葉遊びで送辞と相似とか言いますか?」 太一「……言いません!」 美希「なぜ怒るです」 太一「……」 美希「なぜ黙るです」 太一「そんなオチを封じた上にせかすなようっっ」 美希「わーい、勝ったー」 たくましかった。 太一「あ、思いついた」 咳払い。 太一「……人類を掃除した」 美希「きさまが犯人かー!」 太一「はー!」 たたかう二人。 太一「よっ」 太一「ほっ」 太一「……はっ?」 太一「おっっ!?」 胴体に一発当たってしまった。 う、なんか強い? カラデをおさめたこの俺を。 太一「おのれ」 ちょっぴり本気になる。 美希「しゅっ」 しなやかな脚が、腰より高くあがった。 軸足を払ってやろうと思ったが、白パンツが垣間見えた。 攻撃中止。 男太一、眼前に供えられたパンツを見ないなどという惰弱な選択肢はない。  ・パンツ見る  ・パンツ見る  ・パンツ見る うむ、ない。 腰を落として視線を下げた。 蹴りが来る。 カラデによる中段受けにて備える。 腕の間を、つまさきは柔らかく貫通してきた。 太一「れ?」 ありえん。 顎にヒット。 太一「あらら?」 俺は気絶した。 ……。 …………。 ……………………。 太一「はっ?」 美希「あ、よかった。気がつきましたか?」 太一「う、うー。俺ってばどれくらい気絶してた?」 美希「一分たってないですよ」 太一「あー、ついに美希に負けたかー!」 膝を打った。 美希「たは」 美希「でもすごく油断してらしたじゃないですか」 太一「いやー、あれは俺にとって他に選択肢がないからなー」 太一「……たぶん命がかかっていても同じだった」 美希「パンツに命を!?」 太一「チッチッチ」 指を振ってみせる。 太一「ライブで見る素人娘がリアルに着用しているパンツ、だよ、君」 美希「違うんだ……」 太一「違うとも。このように———」 がっし 愛弟子の短いスカートのはしをつまんだ愛指が。 チョキで、しっかと挟まれているっ! 太一「はっ、防がれた!?」 美希「ふふふ」 ショック。 太一「うーん、免許皆伝」 横たわって膝を抱え、エビチリみたいに丸くなった。 太一「で、俺はもう引退しゆ」 美希「しゆとか言うし……」 ゆさゆさと揺すられる。 美希「ししょー、元気出してくださいよ」 太一「いい。引きこもる」 美希「またはじまったよこの人は」 美希「……」 美希「全然……なのにな」 太一「ウイ?」 フランス人のように問い返す。 美希「みんなに普通なのに」 声が震えた。にわかに。 太一「ミキミキ?」 美希「ほら、こんなに手が震えてます」 広げた両手が、汗ばんで、かじかむように。 まるで怯えているかの如く。 太一「……どうして?」 美希「それはもう、せんぱいのプレッシャーみたいっぽいやつに当てられて、小心者の美希はビビリまくりなわけですよ」 太一「……」 美希「だから、元気出してください」 太一「んー」 励ましてくれているだろうか。 様子が変なのが気になるけど。 うーむ、ポワワとしてしまうではないか。 太一「よし、免許皆伝をやろうではないか」 拳を打つ。 美希「え?」 太一「手帳を出しなさい」 美希「……あーあー……アレですか」 美希「なんか久々ですねえー」 なんとも切なそうな顔をする。 というか(というか?)泣きそう(泣きそう?)ではないか。 多重に思ってしまったぞ。 美希はメイトブックを取り出す。 当校では身分証明書をかねるこの手帳を、『都会』の駅裏にある人気NO1高級浴場『メイトブック』にちなんでそう呼ぶ。 ちなんでねぇよ、と自らに突っ込む。 本当は偶然です。 美希「……すんっ」 太一「どうしたん?」 泣いている。 というか(というか?)泣いてる(泣いてる?)。 多重に思ってしまったぞ。 太一「……やっぱり、けっこうショックだったのかな?」 美希「え?」 太一「こんなことになって、世界が」 美希「ああ……」 微妙なためがあった。 美希「そうですね、そうかも」 太一「だろうな」 太一「俺だってびっくりだ。こんなの」 美希「せんぱいも?」 太一「ああ」 太一「もう13歳とか15歳の新じゃがならぬ新処女と出会う機会はなくなったわけだよなぁ」 美希「そっちかい」 太一「そら」 手帳を取り上げる。 太一「美希は手帳だいぶ使いこんでるなあ。ぼろぼろだ」 美希「ぼろぼろ」 無意味に繰り返すことで肯定する美希。 ページを繰ると、メモ欄にはすでに俺のサインがでかでかと書かれていた。 何ページにも渡っている。 俺様サイン練習帳といった有様になっている。 白紙を見つけ、そこに新たなサインを書き込む。 いつ頃からかはじまった、俺たちのお遊びだ。 他愛ないことだ。 手帳を返す。 受け取って、美希は胸元に抱える。 ぎゅっと。 失われた日常を、かき抱くように。 ちょっとあふれた涙を、ぬぐってやりもする。 わ、俺って紳士。 美希「ども……」 太一「なに」 廊下を見渡す。 太一「しかし、掃除とはね」 美希「体動かしていた方が落ち着くかなって」 太一「ふーん」  ・掃除を手伝う  ・スカートめくる 微笑む少女の胸元に、自然な挙措で手が伸びた。 隙を突かれたのか、美希は笑顔のまま身動き一つしなかった。 キイィ なぜか扉の開く音がした。 事実、それは地球上の男子25億にとって(現在三人)の、施錠されていない神秘の扉。 全人類に足蹴にされることを運命づけられた不幸なる大地と床だけが覗き見ることを許される、秘儀たる領域。 だが、そんなたいそうなものでありながら、チェッリー・ティーンがスイorアマイバインディングヤングアダルトになるために誰もがくぐるべき入り口でもある。 ただしそのドアは、四角形ではなく三角形ではあるが(米笑)。 ※米笑=太一表記。(笑)の亜種。米国風の笑いを意味する。 米国人はギャグを言い終わると自分で笑う(それがどんなに寒々しくても!)まこと奇怪な習性があることから、特にしょうもない言い回しを使った際に天然で使ったと思われぬよう自虐的な意図も込めて使用する。 美希「……しまった」 笑顔のまま、口元を引きつらせる。 太一「ごめん、無意識に手が」 美希「いえ、うっかりしていたわたしが悪いのです」 太一「あの、こんなこと俺が言うのもなんだけど……そのランジェリー、とってもセクシーだね。お兄ちゃんちょっびっくりしてる。いい意味で」 美希「恐縮です。いつ手を離していただけますでしょうか」 太一「そ、その、その下着は、美希の清楚な、下着っ、デルタが、清楚な、体は正直っ、色がっ、しっとり包んでっ、こうっ、子猫ちゃんがっ」 思考が千々に乱れる。 美希「さー、それ以上は精神的にも危険ではありませんでしょうか?」 太一「いや、とても無理だ。この手は我が手ではないかのように石化してしまった。鍵っ子が自宅の鍵をキーピックするみたいに気軽に解除することはできない」 太一「しかし……美しいものだ」 美希「は、ありがたきお言葉。そろそろお離しいただければ幸いです」 太一「どんな美少女フィギュアよりも、この生気ある瑞々しさは再現できまい。あの教師にしてフィギュア界にその名を轟かせる一流造形師である榊原潔教諭の腕をもってしてもだ!」 美希「……殺すぞ」 太一「ひぃぃぃぃぃぃっ、本気の目ですね!?」 狩人の目だった。 離れる。 太一「あ、でもずいぶん大人っぽいのを履いてらっしゃるんですね、そのう」 敬語になってしまう。 美希「……ええ、まあ」 少し赤面して美希。 美希「その、水とか出ないんで、洗濯とかできないですし」 美希「お店に行けば新しいのはありますし」 しかもタダだ。 太一「それで……普段は買えないようなセクシーなやつを持って来ちゃったの?」 美希「……はい」 うーん。 けどどうしよう、教えた方がいいのかな。 放置しておいてあげるべきなのか。 太一「あ、あのね、美希りん」 美希「美希りんです。なんですか?」 太一「その下着さ……俺ちょっと知ってるんだけど」 太一「えーと」 太一「あのね、それって玩具下着なんだよ。オープンショーツとかホーニーショーツとか言う」 美希「は?」 太一「えーとね、大人のね、玩具のね、下着なのね」 つんつんと指先を見合わせる。 太一「だから……まーつまり、脱がずにHできちゃうよう秘密の部分に切れ込みが入ってたりするんだわ」 太一「これって、一種のショートカットとも言えるよね!」 人差し指を立てつつ、満点の笑顔を向ける。 と。 美希「……………………」 ダダダダダダダダダッ 走り去った。 トイレに消えて一分。 戻ってきた。 美希「こここコレコレコレコレッッッ!?」 太一「たぶん君はアトミック雑貨(旧木村雑貨店)から下着調達したんだと思うけど、あそこ普通の下着とアダルト下着並べて売ってるんだよね。ほら、そばが団地じゃん? 若奥様相手のラインナップなんだろうね」 太一「俺もよく利用してまーす」 歯を輝かせて親指を立てた。 美希「うひーーーーっ!?」 股間を前後からがっしとおさえた。 太一「落ち着き」 太一「でもそんなの履いて痴漢に遭遇したら大変なことになるね」 美希「ふわわわわ」 美希は股間を押さえて、もじもじ脚をすりあわせた。 太一「……さて」 太一「霧ちんがこのことを知ったらどうなるかなー」 架空の煙草を吸った。 美希「なっ、せんぱい、まさか!?」 太一「あの潔癖性の霧が知ったら、うひ」 太一「フラワーズも解散か?」 美希「にゃごー!?」 すがりついてくる。 太一「……ミキミキがこぉんなHな下着を履いているなんて。不潔」 太一「お弁当交換もなしだね」 美希「それだけはー!」 太一「ならば言うこときくか!」 美希「処女よこせとか以外だったら〜」 太一「いいだろう。では命じる」 頭に手を乗せる。 美希は少しびくっとしたが。 嫌がらない。 太一「掃除をするんだ」 美希「……ゑ?」 太一「いや、二者択一だな」 太一「掃除か、まふまふかだ!」 美希「まふまふとは?」 太一「うむ、まふまふとは……」 太一「と、このような行為だな」 太一「脚と脚の間に顔をつっこんで、まふまふ、まふまふ……」 美希「ペッティングっす!」 美希「まふまふとか可愛く称してもだめっす! ペッティングっす!」 太一「したいなー、まふまふ」 美希「いやーーーっ、まふまふはいやーーーーーっ!!」 太一「霧に嫌われるか、それともまふまふか! 開戦か、和平か!」 美希「はい、あの、掃除って? 掃除はだめなんですか?」 涙目で挙手。 太一「ふむ。掃除を選ぶのかね?」 美希「掃除って……ただの掃除ですよね?」 太一「いや、掃除には違いないんだけど、洗う場所がね……フフフ」 美希「貞操終了」 美希は屈した。 美希「風が語りかける。長いようで短かった処女の日。今日、わたしは一歩大人になる。もっとも望まないかたちで———」 架空番組のナレーションを読みだした。 太一「冗談だ」 美希「えぐえぐ、せめて優しくしてください……」 太一「冗談だというのに」 太一「ほれ、モップだ」 手渡す。 美希「……?」 美希「モッププレイを?」 太一「エロから離れて良い」 まだ美希はきょとんとしていた。 太一「掃除してたんだろう?」 こくと頷く。 太一「では、すみやかに掃除を続けたまえ」 太一「望むままにだ」 美希「は……」 美希「ども」 なんのことはない。 自分ではたき落として自分で引き上げただけだ。 太一「この黒須太一に惚れることを許可する」 美希「申請取り消します」 太一「ガッデム!」 太一「さて」 ふぁさぁっと前髪を払う。 太一「邪魔したな」 美希「おつとめご苦労様です」 太一「そうだ、美希」 立ち止まる。 大切なことを伝え忘れていた。 美希「はい」 太一「そろそろ部活、活動再開するってさ」 美希「部活ですか?」 太一「どうしても心がきつくなったら、顔を出してみるといい」 太一「そういうための、部活だろうから」 ゆっくりと、美希の顔に理解がさした。 美希「……はい」 喜びだけでないなにかが、そこには混入していた。  ・教室に行く  ・屋上に行く 冬子は相変わらず教室でぼんやりしていた。 誰と話すでもない。 部活に参加するでもない。 目的もなく、ただそこにいる。 太一「……」 正しい。 人としてはまっとうだ。 突然、すべてがなくなったんだ。 慣性をもって自らの動力とするしかない。 考えれば皮肉なものだった。 まともな人間たちが全員そろって滅び去り、俺たちだけが生き残った。 太一「桐原」 冬子「……」 ふむん。 太一「ダイアローグ」 冬子「?」 一瞬怪訝な顔をするが、すぐに思索の檻に閉じこもる(フリをする)。 太一「ダイアローグ!」 ゾンビのように言う。 太一「ダイアローグ、ダイアローグ」 太一「ダイアローグ!」 冬子「なんなのよもーっ!」 対話の怪物。 いや、怪物的な対話。 ……にゅ? まあいい。 太一「会話会話。対話対話。必要必要」 身振りをまじえて力説する。 冬子「……必要ない」 太一「対話なくして成立しないのだぞ」 冬子「……よくわかんない」 冬子「話しかけないでよ」 冬子「あんたは私のことなんて、どうだっていいんでしょ!」 太一「そんなことないよ」 太一「キレイな桐原は好きさ」 冬子「アレが! 好きな相手にすることっ!?」 太一「そう」 冬子「ウソ!」 太一「ホント」 冬子「だって、だってだって……」 言葉に詰まる。 冬子「話しかけないで」 まくしたてるのをやめたらしい。 不完全燃焼。 話しかけないでと辛口に言われると、話しかけたくなる。 話しかけると、また、話しかけないでと辛口に言われる。 太一「うーむ」  ・話しかける  ・部活に行く 太一「おい、憂鬱なお嬢様」 冬子「……」 ひどい顔色だった。 太一「……ちゃんと食べてる?」 冬子「なんなのよさっきから!」 すぐ気分を害する。 俺は本気で心配する。 太一「顔色が悪い」 太一「食欲がなくても、体にはエサを与えておいた方がいい」 太一「精神より先に体が根を上げる」 冬子「大きなお世話!」 太一「料理、得意なんだろ」 昔そう言っていた。 冬子「……ほっといてよ」 顔を向けようともしない。 太一「仕方ないやつだ」 太一「ほら、手を出せ」 冬子「……手?」 太一「手を出せ」 冬子の顔に、刑事ばりに疑惑が満ちた。 本物の刑事は疑っても表情には出さないだろうが。 冬子「……またヘンなもの握らせるつもりでしょ」 太一「ヘッ、前にそんなことをしたことがあるみたいな言いぐさだな」 ペッ、と架空の唾を吐く(社会性)。 冬子「したじゃないのさ!」 太一「……えっ?」 ポヤーンとする。 冬子「したじゃないのしたじゃないのっ、ぎゅっとぎゅーっと握らせたじゃないのっ」 太一「そんなことあったっけー?」 アホの子供みたいな口調で言う。 冬子「とぼけるなっ!?」 太一「おぼえてないですなぁー?」 冬子「うそ! その顔は絶対おぼえてる顔!」 太一「どんな顔だ」 冬子「こっちはまだ感触が手に残ってるのに〜っ!」 わなわなと震えた。 冬子「だいたいアンタ! 人の頭の上に乗っけたこともあったでしょ!」 太一「ちょんまげですな」 禁断の秘技、ちょんまげ。 太一「貴族のたしなみ」 冬子「性犯罪者のたしなみでしょ!! 貴族があんなことするかぁっ!!」 太一「自分だってエロいくせに」 冬子「な———っ」 蒼白だった顔がもっとまっしろに。 太一「俺の指を使って———」 冬子「おのれがやらせたんじゃーーーーーーーーーっっ!」 ばばびたーん! 太一「YOU WIN!」 俺は舞った。 放物線を描いて落ちた。 太一「これが我が魂的責務とはいえ……いたい……いたいよ……」 起きて、のたくたと散乱した机と椅子を並べ直す。 冬子「……」 冬子はもう元の姿勢に戻っていた。 形状記憶合金なみの体面だった。 貴族の血か。 太一「あの、桐原しゃん」 冬子「……」 ため息。 太一「はいはい、無視なら無視でいいけどさ」 太一「ほら、手」 強引に手を取る。 冬子「ちょっと……」 ぽたぽたぽた 太一「ママの味をくらえ」 てのひらに転がる、あめ玉みっつ。 冬子「あ」 太一「安心するがいい。俺の二億匹の小さいなワンダフルライフたちは入ってないから」 太一「休暇中でね(米笑)」 冬子「……当たり前でしょ」 ぎゅっと。 冬子はあめ玉を握った。 太一「糖分を等分に摂取すれば当分は生きられるはずだ」 ダジャレも三重なら許されるはずだった。 太一「食欲がなくとも、ものを口に入れる習慣は維持するように」 冬子はじっと拳を見つめていた。 冬子「……あなたは、いつもそう」 冬子「優しいフリをしたり、バカにしたり、冷たくしたり、恐くなったり」 冬子「わかんないよ」 顔を覆う。 冬子「……ほっといて、お願いだから」 太一「へーい」 怒られた。 夕方になっても、地べたは暑かった。 靴の底から熱が伝わる。 けど耐えられないものではない。 関東の都心部に比べたら、雲泥の差だろう。 風の通りが良いし、湿気もとどまらない。 こんな坂道をいくつもこえていくのでなければ、だ。 さらに蝉のうるささは、暑さを増幅させる。 夏だけ活動していた某バンドばりに、奴らもこの季節に賭けているのだ。 新川「ぎゃっ」 太一「え?」 間近で、誰かが倒れた。 乾いた音がして、足下にステンレスの杖が転がってきた。 太一「あらぁ?」 人が倒れている。 近寄ってみた。 太一「……あの、平気?」 新川「あ、すいません、平気です」 こういう時、日本人はすぐ平気平気と言う。 実際はどうだかわからない。 急に腹が立つ。 太一「本当に平気なのかよ! そんな一瞬で平気かどうかわかるものかよ!」 新川「お、おお……ああ」 その日本人は圧倒されてカクカクとうなずいた。 太一「複雑骨折してるかもしれないだろー!」 新川「見るからに折れてないが……」 太一「人類をみくびった報いを受けさせてやる!」 新川「なんの話だよ!」 新川「ま、とにかく怪我はないから」 そいつは苦笑しつつ身を起こす。 杖を渡した。 新川「あ、悪い」 太一「俺のせいだし、いいけど」 太一「怪我は?」 新川「ないみたいだ」 杖をついて、少しバランスを取る。 片足が不自由なのか……。 太一「骨折?」 新川「だったらいいんだけどなぁ」 屈託なく笑う顔が、穏やかだった。 苦労した人間の顔。 新川「あれ、おまえ……その髪って」 太一「ああ、これ?」 自分の頭髪をつまみあげる。 太一「カツラじゃないよ」 新川「いや、疑ってないし」 新川「けど染めたのか? 根本まで白いな」 太一「違う。天然もの」 新川「へー」 新川「まっしろじゃん」 そうなのだ。 俺の髪の毛は、もうずっと前から純白。 綿毛みたいな白だと、ある人に言われたことがある。 老衰した白ではない。 艶を保った雪白の髪。 薄気味悪いほどに自然な白髪。 ……俺が人目を引く、一番の理由。 二番目の理由は、顔とのギャップなんだろう。ちぇっ。 新川「あ、悪い。気にしてるのかな」 でも、こいつはいい奴だな。 気配りを知っている。 だからこちらも気配る。 太一「いいや、ちっとも」 太一「昔はちょっと。けどガッコ、そこだから」 新川「ああ……群青学院?」 太一「そ」 新川「俺もそこに通うんだよ」 そいつは破顔した。 太一「お、歳は?」 日本人は自分の生年月日を述べた。 同い年だ。 そして、お仲間、か。 太一「よろしく頼む」 新川「こっちこそ。いろいろ教えてくれよ」 新川「俺、足が片方あんま動かなくてさ」 太一「……そうなんだ」 新川「精神的なものなんだよ。怪我はずっと前に治ってる」 太一「大変だなー。いつから?」 新川「ずっと前。ま、天然ものだな、こっちも」 新川「ほら、太さが違うだろ?」 ジーンズを持ち上げて、足首を見せた。 太一「うわ、すご」 新川「ぜんぜん使わないからさー、筋肉がなくなってんだ」 太一「やばいよー、鍛えろよー」 新川「ほとんど動かないんだって。一応、手動でちょっとやってるけど」 新川「面倒でさ」 太一「おいおい!」 新川「あははは、ジョークジョーク」 太一「おまえ、さては自虐ネタの使い手だな」 油断できない男の登場である。 新川「なんだよそれ」 新川「あの学校、いいとこだといいなあ」 太一「いいとこだぞ」 太一「俺たちみたいな者には」 新川「そりゃいいや」 太一「かわいい娘、多いぞ」 新川「マジっすか?」 まともな会話できないのも多いが。 太一「特にまちこ先生がいい。最高」 新川「名前だけでいいな! はやく見てー」 太一「今度、俺の秘蔵まちこ先生アルバム見せてやろう」 太一「A級なんだ」 新川「A級? 最高ランクか?」 太一「いや、上にSがある」 新川「うわ、俺と一緒の分け方だ……」 太一「お、おまえもかー!」 なんなんだこのナチュラル気の合う男は。 新川「OK、なんとかやっていけそうな気がしてきた」 太一「群青はうまいしエロいしおおらかだぞ」 新川「やべぇーっ、エロいかぁーっ、そりゃますますお盛んな人生が開けてきたーっ!!」 太一「行けーっ!!」 新川「おーっ、行くぜ!」 新川「ていうかはじめて会った気しねー」 太一「俺も、おまえとはいつか決着をつけないといけない気がする」 新川「受けてたってやるよ」 自信まんまんに言う。 新川「……その前に、まちこ先生のデータくれな」 太一「OKだ戦友」 太一「人種は違うが頑張ろう、ジャパニーズ」 新川「……いや、おまえも日本人だろ、どう見ても」 これが、俺と新川豊との出会いだった——— 太一「ふう」 テーブルの上に、メモが置かれていた。 『夕食あるかも』 太一「わーい、行く行くー」 自分で用意しないですんだ。 三分で着替えると、いそいそと彼女の家に向かうのだった。 夕食は、おいしゅうございました。 蝋燭に火をつける。 独特の輝きが、室内を照らす。 蝋燭が好きだった。 生の火に、強く惹かれた。 こうしてぼんやりと揺らめく炎を見ていると、心が囚われて、いつまでもいつまでもまどろんでいることができた。 以前、それで前髪を焦がしたこともある。 ぶっちゃけ三分前のことだ。 太一「……焦げた……ちくせう」 泣きそう。 とにかく日記だ。 分厚い日記帳を開く。 人生の記録は、大切だよな。 学校に行った。 人がいないのにと思ったが、皆は来ていた。 授業など行われるはずもないので、ぶらぶらした。 冬子がやけにつんけんしていた。 状況がつかめず、カリカリしているのだろう。 屋上ではみみ先輩が部活。 放棄されていたアンテナを組み立てていた。 単純に据え置きで組み上がっていくものでもない。 大変な作業だ。 けどその大変さが、先輩を救う。 廊下を歩いていると、美希が掃除をしていた。 先輩に部活があるように、美希には掃除があるのだろうか? わからない。 人類滅亡という危機的状況が美希を覚醒させたのか。 俺はとうとう美希に一本取られてしまった。 これはゆゆしき問題ですぞ、校長! だが弟子が腕をあげたことは、素直に嬉しい。 師である俺が抜かれる日は近い。 他にもいろいろとあったが、全体的に良い日だった。 CROSS†CHANNEL 桜庭に押し倒される夢を見た。 太一「……シュールすぎる」 だいたいあいつに、人を押し倒す度胸なんてあるはずないのだ。 朝食が用意してある。 メモもあった。 『しっかり食べて行ってらっしゃい』 美人でキャリアな睦美おばさんは、料理もうまい。 忙しくて家にはほとんどいないけど。 頭が下がる。 お言葉に甘えて、分厚いサンドイッチを野菜ジュースで流し込んだ。 時間がない。 残りはラップに包んでポケットに入れた。 途中で食べていこう。 しばらく歩いていると、 桜庭「あぎゃらおーーーーーーーーっ!!」 桜庭の悲鳴だ。 わりと近い。 犬の吠え声と、悲鳴がさらに重なる。 遠ざかっていく。 太一「なるほど……」 得心した。 と、そこに——— 遊紗「はれ? 太一さん?」 太一「おはよう」 遊紗「あ、おはようですっ」 ぺこりと頭を下げる。 近所に住む美少女の遊紗ちゃん。 上見坂いい街。 説明不要なほど可愛い遊紗ちゃんの、両手にカレーパンが揺れていた。 二人で並んで歩き出す。 別に今日にはじまったことでもない。 なにせ同じ学校に向かうのだから。 後ろから、『い゛っでら゛っしゃーい!!』というハスキーな声が聞こえた。 遊紗ちゃんの母君だ。 ちょっと重くていらっしゃる。 が、毎日楽しそうに生きておられるから、よしとしよう。 平凡な家庭に生まれた美少女。 ただ一つ難点があるとすれば、世間を知らなすぎること。 そんな遊紗ちゃんの、異性の先輩として一番身近な俺に課せられた責任は小さくない。 遊紗「いってきまーす!」 手を振り返す、その顔に反抗期の陰もなく。 どころか、第一次性徴さえまだなのではないかと思われる節もある。 この真っ白なキャンバスを俺色に染めあげたいと思ってしまうのは男として至極当然のことだが中等コースの一年で身長は前から三番目で—— 憶えたての敬語がたどたどしくも初々しい遊紗ちゃんの純正は宝石にも増して煌びやかで我が妄想も汚すか否かの瀬戸際で—— いつも切なげかつ悩ましげに揺れているのであるがその反復思考自体すでにペド狂人のものであるという自覚はある。あるんだってば。 ま、とにかく揺れているのだ。 そう、遊紗ちゃんが手に持つカレーパンの袋のように。 太一「カレーパンだね」 遊紗「です」 歩くたびに前後にゆらゆら揺れる。 両手を幽霊みたいに掲げて、誇示するかのように進む。 太一「それは……朝食?」 遊紗「あの、さっきそこに桜庭さんがいて」 太一「うん、いたね」 遊紗「会いましたか?」 太一「いや、形跡があった」 遊紗「けいせき?」 太一「ま、俺が来たときにはいなかったけど」 遊紗「困っちゃいました」 遊紗「カレーパンあげようと思ったのですけど」 餌付けしようとしてたらしい。 太一「あいつ、コンバットに嫌われてるからさ」 遊紗「吉田さんちの猛犬コンバットですね」 太一「やつは凄いぞ。自力で鎖の繋がった楔を引き抜くことができる」 太一「外出したい時に出ていき、戻りたい時に戻るのだ」 遊紗「コンバットは一般のひとは攻撃しませんよ」 太一「本物の極道ってのはそういうものさ」 遊紗「ごくどう……だったのか……」 太一「今は恰幅が良くなってしまったが、奴には軍人の血が流れてるからな」 太一「人間で言えば、戦争帰りの古き良き親分といったところか」 太一「しかし桜庭にだけは攻撃をする」 遊紗「不思議です」 太一「不思議だねぇ」 ゆったりとしたペースで歩く。 遊紗「これどうしたら……」 遊紗「おなか、すいてますか?」 太一「一個ずつ食べようか?」 遊紗「はい」 二人でカレーパンを食べた。 太一「ガッコー慣れた?」 遊紗「まだちょっと」 太一「いじめは?」 遊紗「全然ないんです! よかったですー!」 太一「だろうねぇ」 天下群青学院。群青上等である。 太一「もし何かあったら、あたしには高等コースに知り合いがいっぱいいるんですますー、とか言って牽制してやりたまえ」 遊紗「はい」 超嬉しそう。 遊紗「もう、ですます、とか言いませんけど……」 照れる。 太一「はっはっは」 昔ちょっとからかったのを根に持ってるな。 太一「担任は榊原先生だっけ?」 遊紗「はい」 太一「いい先生だよ。君はついてる」 趣味は美少女フィギュアとちょっと終わりかけだが。 遊紗「あはあは、どーも」 遊紗「……クラスのみんなも一生懸命生きてて、わたし楽しいです」 太一「そっか」 遊紗「おかーさんもいてくれるし」 太一「だな」 太一「いざとなったらあの人が出張るか。いや遊紗ちゃん、きみの生活安泰だ」 遊紗「それと……あの……」 太一「ん?」 遊紗「先生が、交換日記しろって」 太一「そんな授業あったなあ、昔」 交流HRだっけ。 太一「俺、クラスであぶれちゃってさ、高等コースの人とやったよ」 遊紗「あ、わたしもあぶれました」 太一「え?」 遊紗「うち、奇数なんで」 太一「ああ……じゃ先生と?」 遊紗「いえ、あの、それでです」 鞄の中から、ごそごそとノートを取り出す。 遊紗「太一さんに、お願いできませんか?」 カラフルグリーンのノート。 ほのかにミントの香り。 太一「よし、やろう!」 両拳を突きあげて叫ぶ。 遊紗「……」 太一「どうしたのだ、娘」 遊紗「は、え、あの……いいんですか? もっとよく考えなくて?」 太一「無論だ」 遊紗「あっさり……」 太一「そのノートが日記? もう第一回目は書いてあるの?」 遊紗「は、はい、いろいろと」 太一「いろいろと?」 性徴未満の美少女のいろいろ。 この駄目な単語の並び方が、俺をたやすく狂わせる。 だが遊紗ちゃんの前では、少しでも格好をつけて好かれなくては。 名付けて理性背水の陣である。 太一「それは楽しみだね」 前髪を『ふぁさぁっ』と払う。 少女のまなざしがじっと我が白髪に注がれる。 気がつくと、よく顔やら髪やらを見られている。 そういえば以前、コ○ルトな小説に出てくる王子様が確か白髪の美形だったとか。 熱く語っていた。 してみると俺は、王子様とイメージしているのだろうか。 だったらいいなぁ……。 いや……顔がさ……ダメじゃん……。 所詮は願望に過ぎない。 遊紗「ちょっと恥ずかしいです……」 太一「真面目に書いたことを笑ったりしないよ」 遊紗「……」 お、今のはポイント高かったんじゃないか? 美希では耳年増にさせすぎてちょっと失敗したからな。 俺の底も割れてしまったし。 今じゃただの遊び相手と化してしまった。 シット! 思い返せば返すほど惜しいぜ! 今度こそうまくやって、あわよくば据え膳の美処女だ(意味不明)。 理性理性、紳士紳士。 太一「それ、受け取ってもいいかい、フロイライン?」 遊紗「風呂いらいん?」 太一「サマーウップス」 つい難しい単語を使ってしまった自分に対し、常夏仕様で戒めの言葉を吐いた。 太一「可愛いお嬢さんってことさ」 少女の涙を優しくぬぐう。 遊紗「どうしたんです? わたしの目になにかついてましたか?」 泣いてなかった。 太一「愛しいお嬢さんってことさ」 遊紗「え……」 平然と仕切り直す俺。 遊紗ちゃんの顔から、洗い落としたように表情が消えた。 そして薔薇が咲き誇るほどに赤々とした羞恥の色に———染まらず、 遊紗「ぐじゅんっ!!」 遊紗「ぐじゅんっ!!」 くしゃみをした。 濁ったくしゃみだった。 遊紗「あ、ごめんらはい……ぁ」 最後の『ぁ』は敏感な部分を擦られてついつい漏らした桃色清純吐息では断じてない。 彼女の目が、あるものを注視したためにこぼれた、小さな驚きだった。 俺と遊紗ちゃんの間に、橋がかかっている。 片方は俺の制服の、ちょうど腹部あたり。 もう片方は、遊紗ちゃんの鼻。 つまり。 遊紗「は、はれ?」 鼻汁橋できた。 粘度の高い液体が、 のびろーん と吊り橋をかけていたのだ。 俺の推理はこうだ。 くしゃみをした拍子に、打ち出された鼻汁弾は新幹線よりも速い初速で(本当)こちらの制服に打ち込まれた。 粘着力の強い液体は、弾丸に引っ張られて少女の鼻腔から引きずり出され、普通なら切れてしまう接続部を運良く保持し、橋の完成と相成った。 遊紗「…………」 その事態が、ようやく遊紗ちゃんにも理解できたようだ。 顔色が青ざめていく。 身動き一つ取らない。 いや、取れないのだ。 うら若すぎる彼女にとって、己のはなぢるを異性の……しかも快男児と誉れ高い貴公子(俺幻想)の……衣服に顔射してしまったのだ。 ※一部、不適切な表現があります。 下手をすれば、 『はなぢる姫』 『はなぢる子ちゃん』 などの極めて小児的かつ残酷さに満ちた称号を授与されかねない。 子供はいつだって笑う対象を求めている。 相手が弱ければ弱いほど。 どこまでも、どこまでも。 遊紗「あぅ……あっ、これは……あの……っ」 極度の緊張によるものか。 見開いたままの瞳に、一気に涙が溢れた。 いかん! この子に新たなトラウマを植えつけてはならない。 アトランティスの血を引く美形白髪王子の出番だった。 少女が錯乱するよりはやく、冷静にハンカチを取り出す。 それでまず、遊紗の鼻先を包んだ。 遊紗「……うゅ?」 変な声をあげる。 根本を断ち切ってから、幾度か折り返して鼻下をぬぐう。 それから鼻汁橋を回収しつつ、自分の制服を軽く拭いた。 ハンカチをポケットに戻す。戻そうとする。 遊紗「あ、だめ、だめですよっ!?」 太一「んー?」 遊紗「そんなききき汚いっ、あ、それはだめ、捨てないと、あ、あのっ」 遊紗「べんしょーしますっ!」 太一「いいんだよ」 朗らかに笑って。 太一「さ、行こうか」 遊紗「だから、その、ごめんなさっ、でもハンカチっ」 今度こそ、親指の腹で涙をぬぐいつつ。 太一「可愛い後輩を、困らせたままにしておくようなハンカチじゃないんだよ」 遊紗「……っっっ!!」 少女は大きなショックを受けた。 太一「弁償はいいけど、風邪には気をつけた方がいいな、遊紗君」 ぽん、と頭を軽く叩いて、歩き出す。 遊紗ちゃんは、茫然としていた。 太一「ヘイ、学校だ、お嬢さん」 遊紗「……は」 遊紗「はいっ」 小走りで駆けてきて、 遊紗「……」 太一「ん?」 手を握ってきた。 耳までまっ赤にして、俯いたまま。 可愛いもんだ。あれだけのことで。 ハンカチ一枚で射止められた少女の好意を、べつだん安いとは思わなかった。 だが同時に彼女におもいっきり子供生ませたいと思ってしまった俺は脳が腐っていること間違いなかった。死ね、死んでしまえ。 冬子がいた。 というか、いっつも一等賞じゃないか、こいつ。 太一「おはよ」 冬子「……(ぷいり)」 シカト? シカトですか。 太一「パンツ……」 冬子「くどい」 太一「パンツ買ってくんない?」 冬子「どーして私があなたのパンツを買わないといけないのっ!」 机をどついて立ちあがる冬子。 太一「朝からホットだね」 親指を立てる。 冬子「……」 冬子は親指をぐっとつかんで、ごきっと横に折った。 太一「ぎえええええええっ!!」 太一「あほーっ、折れたらどうするのだーっ! 自慰もままならないではないかーっ!」 危うく手首を返したからよかったものの。 冬子「話しかけないで」 太一「昨日のテレビ見たぁ?」 冬子「話しかけないで!」 太一「……むぅ」 話しかけないでと辛口に言われると、話しかけたくなる。 話しかけると、また、話しかけないでと辛口に言われる。  ・話しかける  ・部活に行く 太一「おい、反転属性つき勝ち気娘」 冬子「はぁ……?」 太一「これをやる」 朝のサンドイッチを差し出す。 ぽかんと、見つめる冬子。 冬子「なに、コレ」 太一「あんまん」 冬子「んなわけないでしょ!! サンドイッチでしょ!」 太一「知ってるじゃないか」 太一「ほれ」 ずい 冬子「……やめて」 手を払われる。 サンドイッチが落ちた。 拾う。 太一「ちゃんと食べてるのか?」 冬子「あんたに、関係ない」 そっぽを向く。 太一「自分しか、自分の心配をしてくれる人間がいないのは、つらいだろ?」 冬子「何言ってるのかわからない」 太一「人に心配されたい」 太一「満たされたい」 冬子「……」 太一「俺、ちょっとは心配なんだけどな」 きっと俺を睨む。 冬子「よく、言う」 冬子「心配してるなら、どうして、どうしてっ!」 いきり立つ。 太一「あ、今は別に怒らせようとか思ってないんだけど」 びたーん よろめく。 全然痛くなかった。 冬子「……うう……」 冬子は攻撃したあと、へたりこんでいた。 太一「もし?」 冬子「……ん…………」 目頭を押さえて、青い顔をしている。 太一「……冬子」 そばにかがみ込む。 冬子「呼び捨てないでよ……」 絞り出すように言う。 一瞬で、額に汗が浮いていた。 太一「どこか痛むの?」 冬子「……」 太一「こんな状況なんだぞ。休戦だ」 もう医者はいないのだから。 太一「冬子!」 冬子「目が見えない……」 失明? ぞっとする。 太一「他には?」 冬子「気持ち悪い。ふらふらする……吐きそう」 太一「吐くか?」 冬子「……や」 太一「じゃ横になりなよ」 促す。 冬子は抵抗しなかった。 太一「目は?」 冬子「まっくら……」 失明かな。 だったら、まだいい。 重篤な疾患や、臓器におよぶ大怪我よりはマシだ。 太一「冷静にね。パニックにならないで」 冬子「…………大丈夫よ」 太一「ここ数日、体に異常はあった?」 冬子「ない」 太一「目に劇薬を浴びたとか」 冬子「ないわ」 うーん。 本当に突然か。 冬子「あ……」 太一「どうした?」 冬子「ちょっと見えるようになってきた」 安堵。 太一「じゃあ貧血だな」 冬子「貧血?」 太一「そういう症状が出ることがあるんだ。気持ち悪いのもそのせいだな」 冬子「そう……」 太一「気持ち悪いのは?」 冬子「ちょっと……楽になってきた……」 太一「……本当に、ちゃんと食べてる?」 冬子「…………」 無言は非肯定を意味していた。 太一「食欲、ないわけ?」 冬子はゆっくりと上体を起こす。 冬子「……夏はいつもないの」 太一「でも貧血が起きるのはまずいよ、先生」 太一「今日は何食べた?」 冬子「…………」 何も食べてないのか……。 太一「ほら、砂と魔女」 冬子「……え?」 太一「サンドウィッチ」 太一「神話の中で、砂と魔女を挟んで食べたのが由来なんだ」 由来&語源主義的な浅薄スノッブ連中がだまされそうなナイスガセである。 冬子「…………」 冬子は目頭をこすった。 太一「目はどう?」 冬子「見える」 太一「ほら」 冬子の手が、じりじりと水位があがるように、それをつかんだ。 太一「よしよし」 冬子「ペットじゃない……」 ツッコミにも力がない。 太一「手作りだぞ」 わさわさとラップをむいて、小さく齧《かじ》りついた。 冬子「……ぱさぱさしてる」 太一「朝のだからな」 冬子「大きいくて食べにくい」 太一「俺用だったし」 冬子「マスタード入れすぎ」 太一「辛いの大好き」 冬子「…………」 太一「で、まずいと?」 冬子「…………おいしい」 太一「ならば、ゆっくり食え」 冬子「ぐじ」 鼻をすすった。 悔しかったらしい。 やれやれだ。 冬子「うっ」 口元を押さえた。 太一「吐くか?」 首を振る。 無理して、嚥下《えんげ》した。 冬子「……何か飲みたい」 太一「マイ水筒」 太一「滅亡世界の必需品」 渡す。 冬子「……」 ずいぶんと迷って、 直に口をつけて、 器の尻を持ち上げた。 喉が隆起して、水分を摂取する。旺盛に。 太一「……水分くらい補給してるわけ?」 冬子「だって、水道出ない」 太一「田崎商店」 冬子「……行ったけど」 冬子「帰る途中で転んで、坂の下に全部落ちた」 太一「不器用ちゃんか、おまえは」 太一「店に取りに戻ればいいだろうが」 冬子「……そしたらまたあのメモ書かないといけなくなるから」 冬子「人に見られたら……」 太一「はあ?」 それだけで? 体面の問題だけで? 太一「自分の命優先だろうが!」 冬子「だって」 泣きそうになる。 太一「はー、桐原先生、そりゃ呆けすぎですぜ」 冬子「デリケートなの!」 太一「人がいなくなったら、そんな価値観は消える」 何も許容されなくなる。 求められるのは。 生きる力。 それは純粋な個としての人。 あらゆる欲望が、蔑まれさえしていた欲求に簒奪《さんだつ》される。 冬子にそれがあるとは思えない。 いや。 とうに、わかっていたことだ。 冬子の凄絶な弱さを。 理解した。 こいつはもう限界なんだって。 人類が滅亡して、家族もいなくなって、あの広い屋敷みたいな家で。 一人で。 太一「……これから、八人だけで生きていかないといけないんだぞ」 冬子「……………………」 沈黙が重い。 冬子「みんな死ぬわ」 太一「死ぬさ」 誰にだって、逃れられない死が待ってる。 太一「問題はいつ、どう死ぬかだろ」 冬子「こんな……ありえないじゃない……人が……いなくなるなんて」 太一「でも現実だ」 突きつける。 太一「世界は人を塗りつぶした。俺たちだけが、『互い』だ」 冬子「私には耐えられない……」 太一「うーむ」 この流れは……。 仕方、ないのかもしれない。 関わったのだ。望んで。 俺が冬子と築きたかった関係は、決して蜂蜜のようなそれではなかったけれど。 この壊れかけの少女を、放置するという選択はない。 途中まではいい。 けど……終端についたら? どうする? 俺はどうするんだ? もう逃げ場はないに違いない。 冬子ルートとも言うべき流れに乗って、際まで行って、そこで全てが崩壊したとしても。 今度はその終焉までつきあわないといけない。 らんじゅく 爛熟という苦痛に苛まれながら。 太一「どうしても耐えられないなら」 冬子「え……?」 敏感に冬子が反応した。 口をつぐむ。 冬子「……どうしても、何?」 太一「いや、それ、全部食べていいから」 立ち上がる。 太一「なあ」 冬子「……んが?」 サンドイッチを囓りながら冬子。 太一「どうして、人は滅びたんだと思う?」 窓の外を見る。 何を期待して問うたわけでもない。 冬子「滅んだんじゃないわ」 とんでもなく哲学的な答えが戻ってきた。 冬子「……薄くなって消えてしまったのよ」 夜自室。 夜が暑苦しくないのが、田舎のいいとこだ。 窓から滑り込む風はほどよく冷たく、肌に優しい。 太一「……ハラ減ったなぁ」 独り言なども適度にこなしつつ、日記を書き綴る。 がるるるるるるるるる 腹の虫がうごうご咆吼を繰り返す。 さながら自らを囲う身の程弁えない檻に対して敵意を剥く獅子の如く。 腹の虫『食えよ、テメエ食えよっ! 食うぞ!』 太一「うるさいな。なんだそれ、ギャグか」 腹の虫『腹減ってんだよ! 食えって! 俺だけの問題じゃねぇんだぞ!』 太一「短気なやつだ。萩原朔太郎の詩に出てくるタコみたいに自分の脚でも食ってろよ。全部食いきったら永遠の存在になれるぞ」 腹の虫『馬鹿にしやがって! 舐めてんのか!』 太一「だったらどうした? ん?」 腹の虫『殴る!』 太一「やってみろ空想の産物が」 腹の虫『みくびるなよ! 俺はスゥィートに育てられた芸能人の息子ばりに無軌道なんだぜ?』 太一「フー、そいつはクールだ。けどおまえのスウィートガイっぷりも、肉体という檻の中じゃ実刑判決で豚箱入りした芸能人の息子ばりに無力だってことを忘れるな」 腹の虫『おのれ、言わせておけばっ!』 と、俺くらいの人間ともなると、こうして観念的な存在とも意思の疎通がはかれるのである。 そういうの一般的にキチ○イって言いますかそうですか。 気にしない!(泣いてる) 太一「しかし本当にハラは減った、と」 何か食うか。 階下に。 冷蔵庫の中身はからっぽになっていた。 電気も通ってないから、何も保存できないしな。 戸棚類をあさる。 パンもない。 干し肉もない。 夢と希望があった。 ……これはまったくもって完膚無きまでに何の役にも立たないので捨てる。 コショウがあった。 ジャガイモもあったぞ。 ソースをてにいれた。 しおをてにいれた。 さとうをてにいれた。 太一「ごちそうだ!」 机の上に、それらを並べる。 太一「いただきまーす!」 ショリ……ショリ…… 剃毛する時にも似た音を立て、塩ふり生ジャガイモを齧る。 太一「ほー、これが新ジャガの風味かぁ、んがぐぐ……適度に固くて、まるで石のよう……」 太一「って、食えるかこんなモン! なめんな!」 投げつけた。 太一「ペッペッ、芽まで囓っちまった! 毒なのに!(本当)」 そして俺は気づくのだった。 太一「食い物がない!?」 愕然とする。 太一「そうか、パンがなければケーキを食べればいい……ププ!」 餓えた民衆が聞いたら抱腹絶倒間違いなしのナイスギャグだ。 そのくらいの度量が民にもいるってことだね。 太一「ということでピザを取ろう」 電話をかける。 太一「すいません黒須ですけどダブチスペM一枚……」 ※ダブチスペ=現実語。ダブルチーズスペシャルの略。本当にこう呼ばれている。 太一「滅亡してたんだっ」 わっと泣き伏す。 太一「あー、まだ制覇してないメニューがあったのにー!!」 人生後悔だらけ。 太一「そうか、じゃがいもがあるんだった」 あれをふかせばいい。 庭に出た。 サバイバルマンガを参考にして炊飯の用意をする。 太一「できた……」 蒸すのは面倒なので、焼くことにする。 ここで簡単なじゃがバターの作り方をば。 火を起こす。 踊る。 石を加熱する。 ジャガイモに一人一人名前をつける。 ホイルに包んだジャガイモを断腸の思いで石に放り込む(風味が増す)。 待つ。 涙する。 待つ。 涙をぬぐう。 待つ。 哀しみを乗り越えて人として大きくなる。 待つ。 待つのをやめ。 腹の虫を止め。 取り出して皿にうつす。 バター……はないので塩をかける。 じゃがバターじゃないじゃん?とかいう些細な疑問を払拭する。 食す。 太一「あちち」 でもうまい。 生きてるなぁ、俺。 玄関先で人が倒れるのが見えた。 太一「ぶっ」 駆け寄る。 桐原冬子その人だった。 冬子「ううう」 俺はじゃがいもを貪り食いながら、冬子を見下ろした。 冬子「ううう」 俺は二個目のじゃがいもを貪りだした。 冬子「……誰か……」 俺は三個目のじゃがいもを——— 冬子「さっさと助けなさいよ……」 太一「しゃべった」 冬子「うう……」 つらそうである。 太一「どうした?」 冬子「……食べ物のにおいが……」 太一「ふむ。その匂いをたどってここまで?」 冬子「…………」 反応がなくなった。 太一「…………」 俺は三つ目のじゃがいもを食べ終わってから、冬子の体を引き起こした。 がつがつがつ 冬子がじゃがいもを貪り食う。 太一「……」 調味料もかけずに。 咀嚼してない時間があってはならないとばかりに。 猛然と、勇猛果敢に、徹底して、食べる。 思い返せば、人前で食すことを恥じらっていた冬子だ。 こんな様子は珍しい。 太一「……新田」 冬子「……っ……っ」 太一「……葛西」 冬子「……っ……っ」 太一「……宇賀神」 冬子「……さっきから何なのよ?」 太一「おまえの血肉になった新じゃがの無辜《むこ》なる民たちだ」 冬子「は?」 じゃがいものかけらを頬につけて、冬子は怪訝な顔をした。 太一「気にしないでいい」 太一「命は受け継がれていくのだ」 合掌。 冬子「……は?」 太一「いいからいいから」 しばらくきょとんとした顔をしていた。 再びかぶりつく。 冬子「……んくっ」 四肢が引きつる。 太一「はい水」 ペットボトルを渡す。 冬子「んっんっんっ……」 飲み干す。 冬子「はふはふ」 また食い出す。 大人びて見えるけど、年相応に子供なんだよな、こいつ……。 七個か八個もたいらげて、ようやく冬子は一息ついた。 冬子「……落ち着いた」 太一「そりゃ何より」 冬子は居住まいを正した。 俯いて、上目づかいに俺を見る。 だもんで、俺も冬子を見る。 じっと見る。 冬子「……見ないでよ」 赤面してうつむく。 可愛かった。 ちょっとドキドキしてしまった。 太一「い、いやなに。そっちがメンチを切るからつい」 冬子「お礼言おうとしてたのっ!」 太一「あー、はい、どうぞ」 冬子「ん……」 改めて。 冬子「あ、あ、あ」 冬子「……あり、がとう」 ぎこちなかった。 太一「いいさ」 太一「まさか餓えていたとは思わなかった」 冬子はさらに赤面した。 太一「家に食料なかったとですか?」 冬子「あったけど……」 冬子「どう調理していいかわからなくて」 太一「はい?」 太一「だって昔、料理得意だって……」 冬子「ごめんなさい……」 冬子「あれ、ウソ……」 太一「ウソ!」 がーん。 冬子「ごめん」 太一「あれ、だって昔弁当とか作って……」 冬子「お手伝いさんが作ったのを私が作ったってことにして」 がーんがーん。 太一「お手伝いさんって……何歳くらいの?」 冬子「45歳くらい……」 がーんがーんがーん。 太一「……おばちゃん弁当に……俺は……ときめいて……」 冬子「ごめんなさい……」 太一「ひどいっ」 俺は泣き伏した。 で。 太一「じゃ自宅に戻れば肉なり缶詰なりあるわけだ」 冬子「缶詰ってなに?」 太一「リアリーっ!?」 缶詰の存在を知らないっ? 缶詰という単語を知らない? エンサイクロペディア冬子には缶詰の二文字がない? え? いやそりゃ金持ちだって知ってたけど……え、本気ですか? 太一「キャビアって缶詰に入ってるんじゃないの?」 わなわな震えながら問う。 冬子「ビンよ。毎週木箱に詰められて外国から送られてくるの」 平常的に食ってるッッッ!? 太一「ケーキがなかったらキャビアとパンで食いつなげよ金持ち野郎!」 冬子「ど、どうして怒るの? それにケーキって……???」 太一「キャビー! こんなありがたみのわからない女に食われて! おうおう!」 擬人化して哀れんだ。 冬子「泣かれても」 太一「だから! ご自慢のキャビアはどうしたのか訊いたんだ!」 冬子「今週分はないわ。昨日送られてこなかったし」 太一「先週のは?」 冬子「先週は全然食べなくて未開封だったけれど……捨ててしまったわ。傷むもの」 太一「イクッ!!」 俺はぴーんと反った。 そのまま地面に倒れる。 冬子「きゃっ!? どうしたの?」 ブリッジを保持したまま、全身を痙攣させる。 太一「キャビア……捨てた……これから傷むから……傷む前に捨てた……」 冬子「口から泡が!?」 太一「俺が中国株で幼少のみぎりから貯えた全財産を失ったというのに……」 太一「おまえはキャビアを捨てていたなんて!!」 冬子「支離滅裂でもう何がなにやら……」 太一「だから金持ちは!」 冬子は顔を伏せた。 冬子「……お金なんて、もう意味ないじゃない」 太一「そらそーだが」 冬子「黒須は、料理できるからいいよね」 太一「料理って言うか、焼いただけだけど」 普通できるだろう。 さいとうた○をの力添えもあるけど。 冬子「……面倒になってくる。ただ生きるために努力しないといけないなんて」 金持ちの発言だ。 この女の家には、家政婦がいる。 いわばメイドだ。 冬子お嬢様だ。 つまり、自分で何かしなくとも自動的に生きてこられたわけだ。 太一「桐原は一人では生きられないのだな」 冬子「……るさい」 力ない反論が肯定だった。 太一「自動的なやつめ……」 冬子「ねえ」 太一「ん?」 冬子「……ここに住んだらだめ?」 耳を疑った。 本気で弱ってるな、コイツ。 さらっと言ったぞ。 他に頼る相手もいないのは確かで。 必然、俺になるわけだ。 うっわ、複雑。 だって冬子と俺って——— ううううう(懊悩《おうのう》)。 太一「い、いいっちゃ」 冬子「え!」 提案した当人が驚きやがった。 冬子「い、いいの?」 太一「……」 太一「冬子を餓えさせるにはいかないだろう?」 冬子「今の間は……」 太一「食の誘惑に取り憑かれたハラヘリハラキリ餓狼を世に解きはなつことになるしな」 冬子「…………」 ガードした。 太一「……ん?」 攻撃は来なかった。 冬子「あ、あの、すぐ着替えとか持ってくるからっ」 太一「なに!?」 冬子「すぐ戻るからっ」 走り出した。 太一「ウエイツ!(待て!)」 足首を掴んだ。 びたーん! 冬子「おぶおぶおぶ……」 冬子は地面にキスした。 良かったね芝生で。 太一「良かったね芝生で」 本音で接した。 冬子「鼻が……毎日洗濯ばさみで高くしているわらひの鼻がぁ……」 そんなことしてましたか。 冬子「わにすんのよっ!?」 太一「本当にここに住むの?」 冬子「住むわよ! もう決めたの!」 太一「しかも羞恥さえ見せない……」 太一「おまえは、人のことをポンポン殴る勝ち気娘なんだけど鑑賞面においては俺に妙に都合の良い追従的なヒロインであれよっ!!」 冬子「……意味がわからないわ」 ふぁさぁっと後ろ髪をはらった。 太一「さっきまで殊勝だったのに!」 冬子「言質を取ったらもうしおらしくする必要なんてないでしょ」 太一「あーっ、ああああーっ、たばかったなーっ!」 冬子「警察がいないなら刀も堂々と持ってこられるわね」 太一「っっっ!?」 あの妖刀ハラキリ丸を我が家に!? 太一「ヒィィィィィィィッ、誰かーっ! ここに刃物をすごく上手に使いこなす武士っ娘がいますっ!!」 冬子「誰か、なんてもういないでしょ」 そうでした! 冬子「だいたい、よく考えたらこれは正当な権利じゃない」 太一「えっ?」 冬子「駄目だっていうなら、返してよ」 ずいっ 片手を突きつけられる。 太一「『隣に住むHな妹18歳』ならもう返却済みだ……」 冬子「エロビデオなんて貸してない!」 冬子「もっと大切なものよ。ほら、返して」 ずずいっ もっと大切なもの。 太一「『すこぶるスクブルすくぅる』も返却したはずだ……」 冬子「マニアビデオも貸してないっ!!」 冬子「私の大切なもの! あなたが奪ったでしょ!」 太一「ああ」 大きく頷いた。 太一「なんだっけ?」 冬子「痴呆なのあなたは!?」 冬子「……………………処女よ」 太一「ボボ?」 どかーん! 冬子「鼓膜を張り替えろーっ!!」 太一「ぎゃー」 蛮勇炸裂。 冬子「とにかく住むの! 住みまくるの! 住みこんで住みあげて……住みぬくの! もう決定! 可決!」 太一「半分で過半数ってことかーっ!?」 冬子「すぐに荷物持ってきてやるんだから!」 きびすを返す。 太一「待て待て」 冬子「まだ何か?」 太一「……んー」 やむを得ないか。 太一「……なんとか……その線で納得してもらって……うん、よし」 冬子「ブツブツ言ってる」 太一「OK、君の入国を認めよう」 太一「ただし今日ってこたないだろ。明日でいいじゃないか」 太一「部屋の掃除だってしないとならんし」 冬子「そ、そうね……」 太一「明日だったら、俺も荷物運ぶの手伝ってやるから」 冬子「ほんと?」 ぱっと点灯する冬子スマイル。 太一「……ああ」 俺の芸術が……。 冬子「どっちにしても、すぐ帰って用意しないと」 太一「んだね」 冬子「帰るわ」 いそいそ。 冬子「じゃあ明日ね。普通に学校に行くから」 太一「はいはい」 冬子「ちゃんと来てね!」 太一「はいはい」 小さくなっていく冬子。 俺はいつまでもゆるゆると手を振っていた。 厄介なことになったなぁ……。 教室に入る。 冬子「あ、太一……」 駆け寄ってくる。 お風呂にするそれともご飯、とでも言いそうな勢いと態度だ。 太一「風呂に入りながらご飯を食べゆ」 冬子「……ふぁ?」 太一「おはよう」 冬子「お、おはよう」 太一「本当に来てたのか」 冬子「そりゃ来るわよ」 太一「……荷物は?」 冬子「家」 冬子「だから、帰りつきあって?」 太一「へーい」 うーむ。 倦怠感というか。 できちゃった結婚を突きつけられた遊び足りない遊び人22歳ってこんな気持ちなのかな。 冬子「荷物、なに持って行こうかなーって思っていろいろ探したの」 冬子「そしたら古い写真が出てきたのよ?」 嬉しそうに言う。 太一「ほう、古い写真とな」 太一「古い写真なら、俺もいっぱい持ってる」 冬子「ほんと? とっておいてくれたんだ」 太一「……」 古い(発禁ヘア)写真(集)なら、俺もいっぱい持ってる。 ウソは言ってない。 冬子「捨てなくてよかった……壁に貼ろうと思うの」 冬子「壁が埋まっちゃうくらいあったわよ」 太一「へあー」 驚いてみせる。 冬子「ふふっ」 腕を組んできた。 展開早っ! くそう、やっぱりこの女は……。 俺は道具袋からアイテムを取り出す。 ※道具袋=太一グッズ。太一袋と呼ばれる。キャンバス地の背負い袋である。秘密道具がたくさん入っている。 それをすかさず「装備」した! 太一「これを見ろ、桐原」 冬子「腕章?」 令嬢は目をこらす。 冬子「……ばかっぷる……はんたい……」 冬子「バカップル反対」 変換する冬子。 太一「そうだ。俺はバカップルが及ぼす環境への重大な影響を重く見て、毅然とした態度でその規制ならびに抑制に努める立場なのだ」 太一「腕組みやめ」 振り払う。 冬子「い、いつものことながら……なに言ってるのかわからないんだけど」 太一「人前での没頭的な愛情表現は慎むべし」 冬子「人って、もういない……」 太一「ちょっといる」 冬子「うー」 不満げである。 太一「桐原、おまえが反転型の勝ち気娘なのはいい」 冬子「はあ?」 太一「けどちょっと甘くしたらベタってしすぎるよ! 水気が多すぎだよ! もっと徹底して勝ち気っぽく行こうよ! 照れる時は厳選。その方が萌え……桐原のためなんだ」 冬子「は、はぁ……」 太一「おまえは宝石のような女だ」 肩に手を置いて語る。 冬子「えっ(ドキッ)」 太一「その輝きはダイヤモンドにまさる……だが悲しいかな、ダイヤは炭素なので火にくべたら燃えてしまうんだ。ガッデム。生涯かけてたくわえた富をダイヤで保存することの愚かしさがよくわかるというものさ」 髪の束をつまんで鼻先に当て、香りを楽しむ。 冬子「???」 太一「一長一短なんだ。そのことをわかっておくれ、私の素敵な淑女よ」 冬子「よくわからないけど、わかったわ」 太一「わかってくれたか」 冬子「……太一、恥ずかしいんだ。人前でベタベタするの」 太一「あにぃ?」 あまりにもズレた理解に、お兄ちゃんの同義語にも聞こえかねない反問が、口をついて出る。 冬子「可愛いとこあるのね」 ぺし、と背中を叩かれる。 萌えられてる? この醜形恐怖症でならした黒須太一ともあろうものが、萌えられているっ!? 許すのか、それを? 否! 太一「やい桐原!」 ちゅ ちゅうされた。 おでこだった。 俺のトキメキ回路はショートした。 冬子「……えへへ」 あどけなく笑う。 こ、この……、 ちくせう! 可愛いじゃねぇか! 冬子「きゃ?」 抱きしめてしまった。 くっ、不覚を取った。 だがもう惑わされないぞ! 冬子「……ごろごろ」 そんなオノマトペごときでこの俺様がぁっ! 冬子「ごーろごろ」 冬子が猫を真似て、胸元をひっかく。 太一「ふやぁ〜〜♪」 とろけきっていた。 バカップルここに爆誕。 トイレの帰り。 友貴に遭遇した。 太一「友貴ーー」 友貴「太一」 太一「わはは、授業さぼってしまったよ。授業中の廊下って独特の世界って感じだよな」 友貴「虚しいからやめよう……」 しょんぼり友貴。 太一「空転してこそ今時の僕らだ」 友貴「気楽だなー、太一は」 友貴「もうサイコマンの続きは読めないんだぞ」 乾いた笑い。 太一「……そうか」 友貴より早く読んで展開を教えることはできないんだな。 友貴「で、何しに学校に?」 太一「イノセンス・ライセンスを所持する俺なんかは、世界に取り残された十代の脆弱な心の機微を演出するため、通学するという日常的習慣を繰り返すことで精神の虚無というか自動的部分を描き出そうとしているわけだけどさ」 友貴「十代の先鋭的な部分ばかりにとらわれた思想だね」 友貴「まだ熱血甲子園君だっていっぱいいるんだよ」 太一「あ、彼らはポストモダンとか言ってる連中のなかでは観察価値のある人間って見なされてないから」 ぱたぱたと手を振る。 友貴「あはははは、言えてるー」 太一「わはははは、だろー」 黒冗談。 毒舌な友貴は好むのだ。 友貴「太一のおかげで久しぶりに笑ったよ」 太一「お役に立てて幸いです」 太一「部活はどうかね?」 友貴「つまみ食い大王が参加してないおかげで順調だよ」 太一「……はははー」 俺のことである。 友貴「太一のとこは明日になると思う」 太一「了解。さんきゅ」 友貴「いいさ」 友貴「友情は見返りを」 太一「求めない」 暑苦しい笑顔、白い歯、立てた親指をガッとぶつけあう。 友貴「そういやさ……」 友貴「部活って出てるわけ?」 太一「いや、つまみ食い大王だから参加拒否されたじゃん……おまえに」 友貴「いや、こっちじゃなくて」 寸刻、言いよどむ。 友貴「……屋上の方だよ」 太一「ああ、みみみ先輩のか」 太一「あー、あんま出てないなぁ……いろいろあって」 友貴「そうか……」 友貴「ま、その方がいいかもな」 友貴「……いいよ、うん」 背を向けて、友貴は立ち去る。 様子が変だったな。 どうしたんだろう? 帰路。 大人しかった蝉たちが、再びじわじわと鳴きはじめる。 新川「ちょいーす」 太一「ん……おお、谷崎!」 新川「鴻巣! 元気だったか」 太一「ああ、この鴻巣太一、たとえ免停になっても元気だけが取り柄だ」 新川「それを言うならこの谷崎豊だってそうだぜ?」 太一「数日ぶりだな、谷崎」 新川「ああ、鴻巣」 太一「谷崎は学校いつから来んの?」 新川「いちおー、明日になった、鴻巣」 手にしたA4封筒をひらひらと振る。 学校関係の書類だろう。 太一「お、うちのクラスに転入してこいよ谷崎」 新川「鴻巣、無茶言うなよ。自分じゃ決められないってーの」 太一「わはは」 新川「わはは」 二人でげはげは笑う。 太一「だけどさ谷崎———」 新川「……OKギブアップだ! 新川豊です、すいませんでした黒須さん」 太一「ああ、やめとく?」 新川「果てしなく続きそうだったから」 太一「もう帰り?」 新川「ああ」 太一「どうする、うち寄ってくか?」 新川「近いのか?」 太一「こっから十分くらいかな」 新川「いいトコ住んでるなぁ。けど悪い。今度にするわ」 新川「姪がさー、やっぱ群青行くんだけどさ、いろいろ教えてやらんと」 俺の耳、 そういう情報、 逃さない(ぐっ)。 新川「なに親指立ててるよ?」 太一「ヘイ、そこのガイ」 新川「な、なんだよ?」 太一「マジごめん。姪、とか聞こえちゃった」 新川「そう言ったっちゅーねん」 太一「歳は?」 新川「俺の一個下」 太一「写真持ってる?」 新川「……黒須?」 太一「ああ、いや、なんでもない。忘れてくれ」 太一「しかしあれだ、一つ違いだと可愛いだろう」 新川「んー、ま、ルックスだけはな」 太一「全てじゃねぇか」 自然と声が低くなった。 ある種のやっかみと嫉妬と……憎悪と。 新川「は?」 太一「いや、気にしないで」 新川「……つうても、ちょっと男っぽいからさ」 新川「最初に言っておくと、そういう感情はないぞ。なんかそういう目で見ようとしても気色悪いだけだし」 太一「うそダーッ!」 新川「わ、どうしたいきなり」 太一「そんなのうそだーっ! おまえはうそつきだ! 可愛い年下の親族がいるんだぞ? 意識しないはずないじゃないか! おまえは仏国書院の一冊も読まないのか!? ありえねー! 解せねー! よっておまえがうそつきだと証明された!」 新川「黒須……かわいそうだが、マジなんだ」 太一「いやっ、聞きたくない!」 新川「本気で、妹みたいなもんなんだよ。同居してるし」 同棲っ!? 同じベッドッ!? 異性のぬくもりっ!!?? 太一「お、おい、そのロケーションには途轍もない何者かの意志が介在しているぞ」 新川「……また都合の良い勘違いをしてるんだろうなー」 新川「そいつの家族に、俺が引き取ってもらってるんだよ」 新川「だからまあ、兄妹みたいなもんだ」 新川「今回、家ぐるみで引っ越してきたんだよ。俺の足のこともあるけど、そいつもちょっとアレでさ」 太一「ああ……」 そういうことか。 一発で納得だ。 それで二人して群青に通う、か。 太一「あれ、そうするとチミは、姪子ちゃんのためにつきあいで転入みたいなもの?」 新川「そうなるかな。いや、俺だって障害持ちですが」 新川「そして姪子ちゃんでもねぇけど……」 太一「優しいお兄ちゃんだな、オイ」 新川「あの、姪の話になってから絡みっぱなしなんですけど?」 太一「羨望を集めるってのはそういうことだ」 新川「そうかあ〜? ずっと暮らしてるとさー、生理的なこととか見えてきてけっこうアレなんだぜ?」 太一「アレ?」 新川「外見はいいとこもあるんだろうけど、欠点がバリバリ見えるから、たいしてきれいなモンにゃ思えないって感じか?」 新川「食うものは食うし、出すものは———」 太一「あ、その先はいいや。夢は大事にしたい」 新川「……おまえの夢って」 太一「ぜひおまえとチェンジして姪子ちゃんとイチャイチャしたいものだ」 新川「うわ−、想像させるな気持ち悪い」 太一「現実は駄目だ……」 本気で気持ち悪がってるよ、この人。 エロ小説万歳。 太一「じゃまた今度にでも遊びに来てくれ」 新川「おー、姪のことも紹介してやるよ」 太一「マジか?」 俺はわなわな震えた。 新川「……たいしたもんじゃないんだけどな……あんま期待すんなよ?」 たいしたものじゃない。 そう言ったやつの目がテポドン級の節穴であることが、後に明らかになるのである。 冬子「……ったら!」 耳元で怒鳴られて、我に返る。 太一「は、はい?」 冬子「ぼーっとしてた。無視してた。傷ついた」 太一「あのなぁ」 太一「俺にはぼーっとする権利もないのですか?」 冬子「……宮澄先輩のこと考えてたりとかして」 太一「男のこと考えてた」 冬子「!!??」 冬子は衝撃に包まれた(見た感じ)。 冬子「おとこぉ……やだ……そんなの……(赤面)」 太一「なんてこった」 最悪だった。 しかもあながち外れじゃない。 太一「夢見る娘よ、あまり夢を見るなよ」 冬子「……3馬鹿もいつもそんな感じだったら、ちょっとは夢があるのにね」 太一「ヤメレ!」 気色悪い。 あの二人を相手に純愛ラブストーリーなんて。 太一『……』  ・桜庭を誘う  ・友貴を誘う 桜庭『太一、俺を本気にさせるなよ』 ぞぞぞぞぞっ! 太一「どーしてそー気色悪いこと考えるんだよ、友情だよ友情、普通の!」 冬子「気色悪いないでしょー。少なくとも3馬鹿って、みてくれはそれっぽく見えるもの」 太一「……俺を含めるな」 冬子「やだ、まだ醜いアヒルの子してるの?」 太一「うるへえ!」 深刻な問題だぞ。 自虐ネタにしてどうにか保ってるんだ。 確かに……面貌の問題ではないのかも知れないが……。 わかっていても、意識改革なんてそう簡単にはできん。 だって、 だってなぁ……。 太一「とにかくだ」 太一「気色悪いことを考えた罰!」 冬子「えっ?」 セキララー! そんなオノマトペがどこからか聞こえた。 冬子「……ッッッ!!」 太一「どっせーい!」 スカートのはしをつかんだまま、頭上に固定する。 今、冬子の辱められっぷりは、並じゃない! しかも公道。 さあ、どうする冬子! どうするッッッ、真剣サムライ娘ッッッ!(予告風) 実のところ。 殴られるのを覚悟していたし、期待してもいた。 ところがである。 冬子「……………………」 ジト目で、俺を見るばかり。 軽く朱色に染まったりなんかしちゃって。 申し訳程度におさえた手に、本気でスキャンティをガードしようという意志はない。 つうかモロ見えてるし。 太一「なん……で……怒ら……な?」 冬子「……だって、誰も見てないし……」 太一「そ!」 唇が震える。 太一「そうじゃないだろう!?」 冬子「どうしてめくった方が怒るの?」 太一「そこはガーンと行くところだろう?」 太一「さあ、おまえの技を見せてくれ」 冬子「……離してよ、歩けないわ」 冬子「それに……恥ずかしい」 ポッ 太一「ポッって……」 太一「それだけ?」 こく、と少女はうなずく。 嗚呼。 ニーチェは言った。 冬子は死んだ、と。 否。 冬子という個が死んだのではない。 冬子に見立てられていた、手の早い勝ち気娘という、大いなる最大公約数的価値観が喪失せしめられたのである。 冬子の個性の一部が死んだことを意味する。 冬子はリアルになってしまった。また。 けど俺は、いつもカリカリしている冬子が好きなんだけどなぁ。 だって、それが一番安定してる。 よし、こうなったら——— 太一「禁断の奥義をば」 冬子「もうはなしてよー……スースーして落ち着かないわ」 太一「もっとスースーするようにしてやる。パンツを脱いだりナプキンを押さえたりできなくしてやる」 冬子「……ちょっと、このまま引っ張るつもりじゃないでしょうね———」 太一「てやー」 そして俺は、 禁じ手を解放し、 下着をおろした。 足首まで。 はやくモザイク! はやくはやく! おっともうかかってたか、さすがに仕事がはやいぜ! 死活問題だもんな! 太一「オゥ、トーコ! セ シ ボン!(とっても素敵だ!) セ シ ボン!(とっても素敵だ!)」 得意のフランス語を駆使して、俺は冬子の陰部を絶賛した。 冬子「……」 冬子「……………………」 冬子「んのぉぉぉぉぉっ!!」 『こんのぉ』と言っている。 舌っ足らずなのだろう。 キスするとよくわかる。 ちょっと舌を吸うと、アップアップするから。 でも反面、彼女の口腔は炉のように熱い。 舌もクリームめいて柔らかく、味わうと陶然とする。 俺は冬子とのラブラチオな日々に思いを馳せた。 ※ラブラチオ=太一語。口唇愛撫全般を意味する……らしい。由来不明。ラブ+フェラチオだと思われる。 と。 冬子「スカポンターーーーーーーーーーンッッッ!!」 どかーん! 太一「これこれーーーーーーっ!!」 舞いながら俺は思った。 もういない、新川豊という男のことを。 そうして俺たちは、桐原のお屋敷に行った。 冬子「とりあえず、これだけ!」 これだけ。 きゃつはそう言った。 リヤカーにして三台分ほどあった。 そこで桐原家の大きなキャンピングカーを使うことにした。 これでも運転はできる。 走り屋マンガで学んだからだ。 ……見るとやるとでは大違いだった。 いろいろあったが、とりあえず冬子はトラウマになった。 二度と俺の車には乗らないとまで言った。 同感である。 いやー、シートベルトしていて本当に良かった。 とにかく『黒須家近所までは車を使えた』ので、あとはそこから移動すればよかった。 とはいえ距離にして数百メートルはあってだな。 俺と冬子はリヤカーを探した。 冬子などはご令嬢であるためかリヤカーというものをフロントにカゴのついたママチャリだと勘違いしていたので、貧乏人代表として怒りの乳揉みをしてやった。 殴られた。いいことだ。 で、俺が探し出したリヤカーで三往復。 疲労困憊《ひろうこんぱい》。 そんな俺をさらに叩きのめしたのは冬子の言葉だった。 部屋に案内した第一声。 冬子「……なに、この物置?」 そこで力尽きて、崩れ落ちた。 太一「あー!! 疲れたー!!」 冬子「……ありがとね。全部やってもらって」 まったくだ! 怒りのまま、冬子にクレームをつける。 太一「だいたいおまえは武道家のはしくれなんだから力仕事くらいできるだろうが! カマトトぶりやがってもう底は見えてるんだよ! すぺぺぺぺっ!」 冬子「……女の細腕に何させようってのよ。馬鹿じゃないの」 ちょっと気分を害した様子。 冬子は雪だから優しくするとすぐトロトロとけるので、絶対甘い顔は見せないと決めた。 太一「……水風呂に入りたい」 冬子「入れるの!?」 ぱっと顔が輝く。 だがしかし。 太一「……そんな贅沢できるか。水は貴重品だぞ」 冬子「えー……」 太一「と言いたいところだが、入れるのだ」 冬子「本当!?」 こんなに喜ぶということは……。 太一「もしかして、ずっと風呂に入ってない?」 冬子「……そっ、そんなことないわ!」 太一「本当?」 にじり寄る。 冬子「な、何よっ」 にじり逃げる。 太一「スメルマニアとして、確認させてもらおうか」 冬子「ちょっ、ウソでしょ、やめてよ、来ないでっ!」 太一「クックック」 鬼畜笑いを浮かべて、俺は獲物を部屋のすみに追いつめていく。 太一「どんな素敵なプワゾンを醸しだしてくれるのかな?」 冬子「……ひっ」 整った容貌が、青ざめて歪む。 冬子「来ないで……そ、それ以上来ると……」 太一「来ると、どうなのかね? 無力な婦女子ひとり、どう抗おうというのだね? この生けるカラデ道・マス黒須を相手に」 変態紳士口調で冬子に問いかける。 冬子「……体臭をかがれるくらいなら」 チン 鯉口を切る音がした。 冬子「斬る」 太一「ぎゃー!!」 太一「そ、それは妖刀 ハラキリ丸!?」 荷物は検閲したのに、いつの間に持ち込んだんだ!! まさか、時空間の彼方から……っ!? 冬子「失礼ね!」 冬子「……愛刀・今虎徹よ」 冬子「無双直伝英信流……段位なし」 太一「ないのかよ」 冬子「取れるわけないでしょ!!」 冬子「でも刀はいいから良く切れる!」 太一「居合いの理念に反するんじゃないのかそれは!」 居合とは、人に斬られず人斬らず、己を責めて平らかの道……。 冬子「生き恥をかくぐらいならば、いっそもろとも!」 太一「ウエイツ! ウエイツ!」 俺は一時の米国人と化して諫めた。 太一「OKわかった、悪戯はやめだ。そっちもその物騒なのをしまってくれ」 冬子「うー」 冬子はギラギラした目をしていた。 まさにキチ○イに刃物。 冬子「……かがない?」 太一「かがないかがない」 命ない。 冬子「……でも」 太一「あのね、ここから二軒ほど隣に行った家で、湯船に水張ってあって……それ使って水浴びできるんで」 冬子「……」 じりじりと、冬子は扉にいざり寄った。 構えは崩さない。戦国魂だ。 冬子「…………」 後ろ向きにじりじりと廊下に出て、そのまま右にスライドしていく。 太一「い、いってらっしゃい……」 冬子「……………………」 ジト目が廊下に消えた。 三十分後。 冬子「たっだいまぁん♪」 元気溌剌《げんきはつらつ》、戻ってきた。 殺気も一緒に洗い落としたのか、ぺたぺた身を寄せてきた。 太一「……ぉかぇり」 冬子「やだ、太一ちょっと汗くさい!」 殺すか……このアマ。 冬子「汗くらいふきなさいよー、もー、だらしないわね」 太一「……俺はフェチっ子だからフェチ娘に手はあげないがセクハラはするぞコラ」 冬子「どうして怒っているの?」 太一「怒らいでか!」 太一「……も、いい。水浴びしてくる」 冬子「いってらっしゃい♪」 戻ってくると、部屋が整頓されていた。 太一「は……?」 冬子「おかえり、太一」 太一「こ、これは?」 冬子「キレイになったでしょう?」 冬子「二人で暮らすんだもの。片づけておいたの」 太一「睦美おばさんみたいなことをしてくれる……」 わなわなと震えた。 冬子「あんなに汚かったのよ? 当然だわ」 ふぁさーっとお嬢様式後ろ髪払いを繰り出した。 『よくってよ』とか言いそうなオーラが満ちた。 いや、そんなことはどうでもいい。 太一「確かにキレイにはなったが……はっ!?」 俺はベッドの下をのぞきこんだ。 ない! 太一「私の秘本が!!」 まず見たのは、机の上だった。 えてして女というものは、そういうことをする。 だが、ない。 太一「おい桐原、こ、ここにあった俺のヌードデッサン用の書物はどうした?」 姑息な俺だった。 冬子「ああ、写真の載ってた本?」 太一「そう」 冬子「焼いたわ」 太一「バンボーレ!」 俺はびーんと一直線になったまま倒れた。 起きた。 太一「焼いた!? 捨てたとかじゃなくて……焼いた!?」 冬子「なんか……見てたらそうしなくちゃっていう気持ちになって……」 太一「学術書を焼くだなんて! おまえは秦の始皇帝か! 第三帝国か!」 冬子「でもベッドの下に押しやられていたから、いらないのかなって……それになんか俗っぽい本ばかりだったし……その……女の人のハダカとか……」 太一「だからそれが学術だというのだ!」 冬子「そ、そうなの?」 太一「人間の根元たる美を肉体に求めずしてミロヴィーが語れるか! 自らの彫った彫像の娘に恋してしまったいにしえのフィギュアオタクのことでも学んで恥じるがいい!」 太一「そしておまえは後悔するんだ。書物が自然発火する華氏451度の世界でな。つまり焦熱地獄に堕ちるってことだ! 学術書を焼くってのはそういうことだ! 人類の敵め!」 くるくるターンを切りながら、幾度となく冬子に指をつきつけた。 冬子「そんなポンポン言われても……それに私だって迷ったのよ」 冬子「でも……なんか見てたら……すごく腹が立ってきて……」 冬子「なんでも、俗世間にはエロ本なるものがあるって聞くわ」 太一「どき」 冬子「私はずっと女子校だったから知らないけど……その……男の人はそれを見て……そのう……妄想するって」 太一「どきどき」 冬子「でもそれって不実だわ。好きな人がいるのに、他の人を妄想するのは良くないわ」 冬子「うん、良くないわ」 太一「ひとりで納得するなよ……」 太一「ちぇ、しょうがないな」 冬子「そうね。過ぎたことだもの」 犯すか……このアマ。 太一「犯すか……このアマ」 聖人君子のように正直な俺だった。 冬子「ねえ、そろそろお腹すかない?」 太一「聞いちゃいねぇ」 冬子「どうしようか? またじゃがいもにする?」 太一「いや、今日は確か……」 などとやっていると。 友貴「おーい!」 階下から声。 冬子「あの声……島?」 太一「説明めんどいから、じっとしててくれ」 冬子「あ、他の部屋見ててもいい?」 太一「どうぞご自由に」 一階に。 友貴から荷物を受け取る。 太一「食料かー」 友貴「大事に食べるように」 太一「うむ、部活ごくろうさん。大変だろうけど、人に施す気 持ちになれるという欺瞞《ぎまん》がおまえを潤すだろう」 友貴、疲れた笑み。 友貴「……気が紛れることだけは確かだね」 自室に戻る。 冬子はいなかった。 太一「ふっふっふ」 太一「くっくっく……」 自然、笑みが漏れる。 太一「キレイな部屋だ。うむ。実にすがすがしい」 太一「ベッドの下のエロ本と引き替えに得た秩序……だがな冬子君、君は甘すぎる」 あれはダミーエロ本なのだ!!(ズギャーン) 本命中の本命は……ちゃんと別の場所に隠してある。 見たところ、クローゼットにあるコスプレ衣装コレクションには手がつけられていないようだ。 つまり冬子のペタ能力は、まだまだ拙いものだと言える。 ※ペタ能力=太一語。保護者ならびに教師の会式不健全感知技能。 女性ものの下着類は、今はあるじなきおねえちゃん部屋のタンスの中。 木の葉を隠すならなんとやらだ。 太一「そして俺の魂の一部たる本命ブックスたちは……フッ」 訓練を積んだスーパー忍者でも気づくまい! 見よ、壁に偽装された驚愕の隠し金庫を!! 人類建築工学の末に生み出された極限のプライベート空間を!! 以前、曜子ちゃんに誘われて外貨で一儲けした時、そのあがりで作ったのだ。 耐火耐熱 隠し金庫『秘密天国』! ※秘密天国=商品名 壁に埋め込まれた取っ手を、クルリと反転させた。 右にスライドさせる。 すると金庫の入り口が。 暗証番号は記録していない。 俺の頭の中にのみある。 すなわち、かのルパンであっても調査不可能というわけだ。 9991。 カチリ、と鍵が開く音がした。 この数字は、太一という名前からつけた。 太=多い、ということで桁の上限である999。+太一の一で1。 とんちがまじっている分、誕生日よりは解析が難しいはずだ。 窪みに指を入れて、正方形の扉を開いた。 ……からっぽだった。 太一「俺の魂ガーーーーーーッッッ!!??」 ガクガクガクガクッ!! 痙攣した。 太一「あががががががっっっ」 口からなにか出た。 ※なにか=エクトプラズム 冬子「きゃ、どうしたの、口から白いものを出して!?」 太一「……っは?」 我に返る。 太一「ぐおおおおおっ!!」 抜けかけていたソレを、両手で地引き網の如くたぐりよせる。 冬子「……吸い込んでいく……」 太一「復・活!」 ヒーローポーズを決めた。 太一「やい桐原! どういうことだ! この隠し部屋の中身はどうした? いやそもそもどうやって見つけた!」 冬子「どうって……なんか怪しいオーラを感じて……探っていたら金庫が出てきて……で太一って名前から予想できる数字を入れたら開いて……」 天才ペタ娘!? 太一「中身は?」 冬子「だから」 冬子「焼いたわ」 太一「全部っ!?」 冬子「ええ」 太一「全部っ!?」 俺は二度聞く。 冬子「え、ええ」 太一「こっ、こっ、こっ」 冬子「ニワトリ?」 太一「この謎めいた小空間が、俺の自我の一部と知ってのことかー!!」 冬子「なんか……女の子が……縛られていたり……スクール水着とか着てたり……」 冬子「なんかヘンだったから、特に念入りに焼いたわ」 冬子「安心して。あんなもの、もういらないんだから」 クスっと笑って、 冬子「……デッサンのモデル、私がなってあげてもいいわよ」 太一「はわわわわわわっ」 わかってない。 わかってねぇぇぇ!! 俺の魂が!(魂が!) 炎に!(炎に!) 俺の魂が!(魂が!) 炎に!(炎に!) 灰は灰に!(塵は塵に!) 塵は塵に!(魂に!) 燃える燃えるぜ、俺の魂 今じゃ手に入らないよ、伝説、究極のE本A本! 灼ける灼けるぜ、ここは地獄の一丁目! 俺の魂が!(魂が!) 炎に!(炎に!) おまえの魂も!(魂も!) 炎に!(炎に!) もろともに! 太一「グッドバイ!!」 ラップ調で絶望した挙げ句、太宰の著作のような絶叫をあげて、俺は気絶した。 意識の底。 去年の今時を、思い出した。 太一「はいはーい」 太一「どちら様で?」 遊紗「あ、あの、堂島です」 太一「その極道みたいな苗字とは裏腹にキュートな声は……遊紗ちゃん? あいてるからどーぞ」 ドアがおそるおそる開き、美少女が立っていた。 遊紗「どうも、こんばん……わ」 座らせて、麦茶を出す。 いろいろ会話をして。 遊紗「あの、わたし今日が誕生日なんです」 太一「へえ、そうだったのか」 遊紗「それでですね、これ……お誕生日プレゼントです」 太一「ええと……とりあえず、ありがとう。でも、あれ?」 遊紗「それと、交換日記を明日提出できたらなと思ったので……」 太一「じゃあとりあえず交換日記と、それとこれは俺からの誕生日プレゼント」 遊紗「…………」 この娘は驚くと絶句する癖があった。 太一「さてと、じゃ家まで送ろうか」 遊紗「……………………っっ!?」 さっきの倍くらいに絶句した。 太一「もう夜だし、ちょっと危ない人もいるからね」 特にこの街には。 太一「行こうか?」 遊紗「は、はいっ」 そして、送った。 遊紗「その質問、毎回しますよね、太一さん?」 遊紗「難しくてよくわかりませんですけど……はい」 遊紗「きょーしゅーです」 きょーしゅーです。 きょーしゅー。 郷愁? 違う。 強襲。 強襲。 そう、強襲。 激しく、攻めること。 ああ。 俺はこの言葉が、好きだな。 夢の中で嗤《わら》う。 とめどなく。 ちょうろう 嘲弄。 沈んだ感情はすぐに深淵に呑まれる。 シニシズムの虚無を思わせるメッキは溶解し、むきだしになっ たカケラが……巨大な母体にまざって、戯《ざ》れる。 思考は一つ。 敵は敵。 殺さば殺す。 CROSS†CHANNEL 楽しい登校。 なのに。 冬子はむくれていた。 太一「……」 冬子「……」 太一「…………」 冬子「…………」 太一「ねえ」 冬子「……ふん」 バリヤーが張ってある。 太一「うーん」 今朝からずっとこんな調子だった。 昨夜はずっと気絶していたから、まったく心当たりがない。 予想できることといえば、気絶している時に夢遊病みたいになにかしてしまった……。 太一「……うーむ」 ありえた。 朝起きるなり、すでに絶頂で機嫌悪かったからな。 太一「おーい」 冬子「……」 駄目か。 一人でつかつか先に行く冬子。 追いすがる。 隣に並ぶ。 気位の高い冬子は、まるでこっちを見ようともしない。 これはこれで美しいが、原因が判然としないのがどうもな。 片手を伸ばして、胸をわしづかみにしてみた。 冬子「いっ!?」 太一「おまえって全然おっぱいないヨネ!」 冬子「おだまりーーーーっ!!」 太一「お嬢様ーーーーーっ!!」 ゆったりと回転しながら薄い稜線を描いて飛んでいたが頭の一部が地面に接触した瞬間急激に制動がかかり一本軸状の車輪と化して高速回転しつつ大地を駆け抜けそのままブーメランのような勢いで雑木林の中に突入した。 太一「ハラキリ拳……無敵の合戦術だ……」 冬子に居合道と武術を伝えた祖父(故人)も、無敵の鬼神とか言われてたな。 武術界ではすごい有名人で、猛牛を素手で殺した映像がネットに流出していた。 冬子「……ぐるるる」 でコレ、その孫。 弱いはずがなかった。 太一「ミストーコ、なに怒ってるデスカ?」 冬子「……ふん、馬鹿!」 あ、いい感じ。 でも怒りの理由がわからない。 太一「桐原さん、自分が生理だからって人に当たるのはよくないと思うんだ、僕」 冬子「いたいけな少年口調で猥雑なこと言わないでよっ!!」 冬子「それと生理じゃない!」 太一「うむ。俺のデータによると、桐原のメンストレーションはまだ一週間ほど先に———」 げいん! 太一「……ぐう」 殴られた。 冬子「どうしてそこまで知ってるのよ! 死んでよ!」 太一「死ぬまでもなく殺されそうなんだが……」 冬子「知らない!」 知らないって……。 太一「男と一緒に住みだした翌日から不機嫌というのは、さすがの俺でもわけがわからないんだが」 冬子のかんばせが、さっと朱に塗りかえられる。 羞恥ではなく、怒りで。 冬子「自分の胸に聞いたら!?」 ずかずかずか 先に歩いていく。 自分の胸って……。 男だからまったいらだ。 ……そうじゃないな。 自分の胸に聞く。 冬子がいつまでご機嫌だったか。 昨日こっちに移住するまでは確かにニコニコしていた。 で、確か俺の魂の一部が火刑に処されて——— クラッ めまいがした。 まだ信じられない。 我が子を失った悲しみとは、このようなものだろうか。 もう俺は、書物に頼ることはできないんだ。 架空受精させた、幾人ものアイドルたちが脳裏をよぎる。 太一「さらば……」 さておき、冬子だ。 昨日は確か、ショックを受けてそのまま気絶してしまったんだ。 夕飯も抜きだったな。 朝も抜きだ。 ちなみにとても空腹だったりする。 ポン 太一「それか」 お嬢様がご機嫌ナナメな理由がわかった。 ならご機嫌取りは簡単だな。 わかってしまえば、あとは今のカリカリ具合を楽しむ余裕さえ出てきて。 太一「〜♪」 鼻歌まじりに、道筋をたどった。 門も開きっぱなしか。 まるで俺たちを迎え入れるよう。 牢獄なのだと思っていた。 けど今は、優しい胎のように安心できる場所だ。 人はいない。 どこにもいない。 ただ学校だけが、群青学院だけが、自然に集まりあえる場所。 引き寄せられて過去を営む。 実際、この人類滅亡は相当にキツい。 トドメになったのだと思う。ほとんどの人間に。 俺には福音となり、彼らには落胆と緩慢な死を。 そして冬子は我が家に来るしかなくなった。 皮肉である。 食堂に来た。 人の気配がした。 太一「なにやつ?」 返事がない。 かすかな物音がする方に近づく。 桜庭「……っっ」 桜庭だった。 冷たい床に座り込んでいて、小刻みに肩を揺すっている。 なにかを貪り食っているような……。 一心不乱だ。 太一「?」 背後に立つ。 太一「らば?」 呼びかけると、 桜庭「……太一ィィィ」 太一「ぎょえーーーーっ!!」 つい蹴りが飛んだ。 前蹴りだ。 槍と化したつま先が顔面にめりこむ。 桜庭「……」 桜庭は無言で倒れ伏した。 すぐ起きた。ノーダメージだ。 桜庭「何をする」 クールに言った。 太一「貴様が不気味な顔をしているからだ」 桜庭「……フ、侵害だな」 絶対漢字を間違えていると確信していた。 だっておバカなんだもん。 太一「食ってたのか?」 桜庭「ああ、見ての通りだ」 太一「……カレーパンか」 桜庭の好物だ。 学食の余り物らしい。 桜庭「なぜかここにケース単位で余っていた」 桜庭「誰も食わないので、俺が頂戴したわけだ」 太一「まずいからな、それ」 桜庭「フ」 太一「そのフって笑うのやめろ。ムカつく」 桜庭「腐ってしまうからな」 てんで聞いてない。 すでに桜庭の周囲には、無数の包みが散乱していた。 桜庭「おまえもどうだ?」 太一「いらん」 桜庭「そうか」 桜庭「オレはオレの正義を、決しておまえに押しつけないぜ」 太一「ありがとう」 桜庭は話の脈絡とかまったく気にしない。 桜庭「礼はいい」 微笑む。 カレーパンにかぶりつく。 太一「朝からこんなに食ってるのか……」 桜庭「ああ、人生最後のカレーパンになるかもしれないしな」 懸命に食う桜庭。 もはやそれは、カレーパンとの格闘に等しい。 しかし。 学食というのは盲点だったな。 太一「……他にパンはないのか?」 桜庭「あった」 太一「過去形だな」 食い尽くしたか。 桜庭「カレーパン以外はいらないから捨てた」 蹴りが飛んだ。 殺す気だった。 桜庭「……フッ」 延髄を斬りすてた。桜庭は棒きれのように転げた。 太一「……どうしておまえはいつもそうなんだ」 桜庭「礼はいい」 平然と立ち上がり、言った。 太一「わいてんのか!」 太一「どこに捨てた!」 桜庭「忘れた」 顔面に正拳。 太一「……危機的状況下において、おまえという友達がいてくれて本当に心強いよ」 桜庭「気にするな」 犯罪的なボケだ。 まだ俺の方が可愛い。 太一「まったく残ってないのかー!」 多重に重なったケースを検分していく。 太一「あった」 コロッケパンだ。 桜庭の甘さが幸いしてか、まるまる残っていた。 太一「あるじゃないか」 桜庭「そういうこともあるだろう」 太一「これ、全部もらっていくからな」 桜庭「好きにしてくれ」 食料はあっさり手に入った。 はたして冬子はそこにいた。 太一「お早いご通学で」 冬子「……」 太一「しかもまた私服通学か」 太一「よくそんな暑そうな格好ができるな」 無視。 太一「へいへい」 肩をすくめて、冬子のすぐ隣……自分の席に座る。 横顔を眺める。 黙殺しているようで、こっちを意識しているのがわかる。 太一「昨夜は悪かったな」 太一「おまえの言うとおり、自分の胸に聞いてみたよ」 太一「バッドだぜ」 太一「けどもう平気さ。オレもおまえもハッピーだ」 冬子が身じろぎした。 こちらを向く。 冬子「……太一はいつもそう」 冬子「私のことなんて、目に入ってないみたいで」 冬子「すぐひとりで……勝手に行動して」 太一「まったくだ。反省してる」 冬子「ちょっとくらい、構ってほしいのに」 太一「そう思って……用意してきた」 冬子「用意?」 冬子の机の上に、コロッケパンをどさどさ。 太一「さあ、好きなだけ餓えを満たすがいい!」 冬子「ちがーう!!」 くるるー しかし冬子の腹は鳴った。 冬子「はふっ!?」 太一「腹の虫」 冬子「こっ、これは違うの!」 くる、くるるー 腹の虫。 太一「腹の虫アゲイン」 冬子「だからこれは別件!」 太一「隠しても無駄だ、俺は腹の虫と会話できるんだぞ?」 冬子「…………はぃ?」 太一「とにかくおまえは空腹なのだ」 太一「ちなみに俺も空腹だ」 太一「そこで一時間目の授業は、コロッケパンとする」 パッケージを破り、一つ目にくらいついた。 幸いなことに、腐ってはいないようだ。 太一「ついでに仲直りの時間ともする」 太一「……道徳ってやつかな」 冬子は唖然としていた。 けど。 冬子「……ぷっ」 すぐに笑った。 冬子「授業なんて単語聞いたの、数日ぶり」 太一「毎日来てたじゃん。あれ、ひとり授業だったんじゃないの?」 冬子「……そうかもね」 パンを手にとる。 冬子「昨日の夕食、楽しみにしてたのにな」 太一「あ、おまえ俺を便利なコックがわりにするために……」 冬子「ち、違うわよ!」 冬子「……一緒にごはん食べられるかなって」 太一「今食べてる」 冬子「……はいはい。わからないヤツはいつまでもわかってくれないわけね」 太一「?」 冬子「いただきます!」 怒りながら食べ出す。 冬子「……おいしい」 太一「空腹の時はなんでもうまいのさ」 冬子「……それだけじゃないわよ」 チラリと流し目。 太一「他になにか?」 冬子「その……雰囲気とかも重要でしょ」 太一「そうだね。よくわからんけど」 冬子「だから、ええと……ほら、味もわからないくらい切ない気持ちになったりとか」 太一「すごく上手いよ。ソースが濃厚で」 モチャモチャと咀嚼しながら言った。 冬子「だからだから、一緒に食べるメンツ次第でけっこう違うじゃない?」 太一「そーお?」 冬子「くっ……」 冬子「もし私がここからいなくなったら、太一だって寂しくなっちゃったりとか……」 太一「え、もうパンいらないの? あと俺が全部もらっちゃうよ?」 冬子「だから好きな人と一緒に食べるとおいしいって言外に言ってるのにどうしてわかってくれないのぶつわよーーーっ!!」 太一「もうぶたれてるっちゃーーーーっ!」 冬子「……ニブチン」 太一「乙女心は英語のようだ。さっぱりわからん」 冬子「はーあ、女子校出身者の夢って、いっこも叶わないのよね」 太一「男子の夢だって叶わないさ」 冬子「どんな?」 太一「……全員美処女で全員レズで姉妹の契りみたいなイベントがあって」 冬子「キモい」 太一「キモい言うな! ドリームじゃ!」 冬子「男子って、そんな歪んだ妄想抱いてるの?」 太一「こんなんで歪んでる言われたら、スクブル野郎はアルファ ケンタウリに住む異星人だな」 冬子「すくぶる?」 太一「気にしないでいい」 というか、してはならない。 太一「今となっては、もう手に入らないしな」 冬子「?」 小首をかしげた。 太一「で、そっちの夢って?」 頬張ったパンでリスのようにほっぺを膨らませながら問う。 冬子「……やめてよ、そんな顔見せないで」 太一「どうして?」 冬子「そんな冬眠前みたいな太一見たくない」 太一「……この冬眠前のリスみたいな俺もまた同じ太一なんだよ」 太一「結局どうしてお嬢様はご機嫌斜めだったのか謎のままじゃないか」 冬子「……………………」 お? 赤面したぞ? 冬子「……すん」 うわ。 泣き出した。 俺は乙女の涙に弱い。 太一「あああ、泣かれても……どうしたら」 おろおろおろおろ 冬子「……嬉しくない」 太一「え?」 冬子「嬉しくない嬉しくない」 また、冬子お嬢様のワガママなお年頃がはじまったゾ。 太一「いったい何が嬉しくないの? 俺にできることならするよ?」 キッと顔をあげて冬子。 冬子「太一は、私と暮らすのが嬉しくないのよ」 プチ叙述トリックっ!? 俺のことかよ! 太一「はーん?」 冬子「……き、きのうだって何もしなかったし……」 太一「気絶してたんじゃねぇか誰かさんのせいで」 太一「ん、何もしなかった? それが不機嫌の理由?」 え、それって……。 冬子「なによ!」 太一「セックスしたかったの?」 拳の中から親指をのぞかせた(両方)。 冬子「……………………」 太一「……………………」 冬子は無言で打擲《ちょうちゃく》し、俺もまた無言で受け止めた。 美しき予定調和なのだった。 そしてまたパン。 冬子「……ひっく」 涙ぐむ。 太一「…………」 ほんと、無邪気なもんだな。 世界が滅びたってのに、のんきに色恋。 確かに……冬子は他に逃げ場所を持たない。 そうしたのは、俺なのだ。 俺の戯れが、変えたんだ。 報いか……。 あるいは責か。 いずれにしても、最後までつきあう義務はあった。 太一「ぃヨシッ!」 冬子はびくっとした。 冬子「……なによ」 太一「決めた。俺、冬子の王子様になるよ」 冬子「…………………………………………ぇ?」 超引いていた。 太一「心配するな。おまえが深層意識で王子を求めていることを俺は知っている」 太一「ドンと来なさい」 冬子は眠たげな目で俺をねめつけた。 太一「じゃあ……Hしますか」 眠たげな目は点になった。 冬子「ほえっ!?」 太一「さあ、脱げ」 冬子「なっなっなっなっ?」 目を白黒させる。 よし、ここで冬子好みの決めセリフと行くか。 太一「ミス トーコ、ユーにQI(求愛)」 決まった。 冬子「ほ、ほ、ほ……本当にするのっ?」 太一「いかにも」 冬子「…………」 恥じ入った。 太一「どうした。満腹になったところで性欲を満たそう」 手を取る。 冬子「そんな三大欲求を順番に満たすみたいなのはいやーーーーーっ!!」 太一「よし、じゃあ適当にイチャイチャして、ムードを高めよう」 冬子「そーいうのもいやよっ!」 太一「強引なのが好きなんだな?」 キラリと俺は目を光らせた。 衣服に手をかける。 太一「さあさあさあ」 脱がそうとする。 肩をはだけた。 冬子「あのっ、そのっ、学校、学校だから、あっ、ああぁあ〜???」 戸惑っている。 可哀相に。 太一「心配はいらないよ。さあもっと脱いで、控えめおっぱいと桃色ビーチクンを俺に見せなさい」 冬子「ダ、ダメェェーーーーーーーーーーーーッッッ!!」 ゴインッ! 太一「きゅう」 俺は気絶した。 目が覚めると、冬子はいなかった。 太一「ううむ」 はじめてでもあるまいし。 ……恋愛ごっこって難しい。 トイレ行こ。 みょー。(最中) 太一「ふう」 曜子「……なんの相談もなく」 太一「ッッッッ!!??」 死ぬほどビビった。 太一「……よ、曜子ちゃん」 曜子「恋愛ごっこでもしてるの?」 抑揚のない口調でそう言う。 太一「あのさ、気配もなく背後に忍び寄るのやめてくれない?」 曜子「……」 太一「もし心臓止まったらどうするのさ」 曜子「……太一の心臓が……そう簡単に止まるはず……ない」 太一「失敬な!」 曜子「私に内緒で、どうせい」 太一「どーして曜子ちゃんの許可取る必要があるわけさ」 鏡の中の瞳が、微妙に潤む。 本当に微妙に。 太一「それに自分で言ってたじゃないか。恋愛ごっこって」 太一「君がそうとらえているんなら、特に問題ないはずだ。ごっこ遊びにいちいち目くじら立てる理由はないものな?」 かすかに彼女が逡巡する。 曜子「……だって、太一は前もこんなことして……失敗してる」 太一「あのときとは状況が違う」 太一「それに冬子のこと、俺かなり責任あるし」 太一「……もしかしたら、今の生活が落ち着いて冬子もちょっと自立できるようになるかも知れない。そしたらいったん仕切り直しにしてもいいし」 曜子「……その可能性は低い」 太一「だからもしかしたらって言ったじゃん」 曜子「…………」 納得したか否か。 整った顔立ちからはうかがい知ることはできない。 彼女は基本的に、徹底したポーカーフェイスだ。 基本的には。 曜子「肉欲がおさえきれないなら」 太一「その話は」 強くさえぎる。 太一「やめておこう。今俺は冬子とつきあってるんだから」 曜子「……そう」 唐突に、彼女は立ち去る。 視界から消えると同時に、その独特の存在感が消失する。 自分で気配を絶った。 そういうことのできる子だ。 太一「はぁぁぁ……」 疲れた。 冬子「あ、太一、よかった」 戻ってきていた。 太一「ちょっとトイレ行ってた」 冬子「うん」 太一「さっそくでアレなんだけどさ」 冬子「……ん、なに?」 優しく微笑む。 抱きしめた。 冬子「きゃっ、ど、どうしたの?」 太一「……冬子は強くならないとな」 冬子「どういうこと?」 太一「今は一緒にいてあげられるけど、いつまでもは無理そうだから」 冬子「え……それって……」 冬子「……また?」 声が震える。 太一「う」 良心が疼く。 太一「ホ、ホラ、俺の家系って短命だから! 親父は若くして宇宙放射線病で死んだし、叔父さんは黒死病だったし、祖父さんはイェマント氏病、曾祖父さんなんて後天性免疫不全症候群だったんだぜ?」 冬子「……ぐす……ひくっ……太一、また私のこと……ほっぽりだすんだ……」 太一「違うって! ホラ、俺も今軽く白血病になってるしさ! ま、冬子に骨を拾って欲しいってことかな!」 弱い俺だった。 冬子「いっしょにいてほしいの……いてよ……ずっといてよ……」 太一「いるいる、いたおしちゃう!」 顔じゅうにキスをする。 額、頬、唇。 ついば 啄むように。 涙の浮いた目尻からは、幾度吸っても水滴がこぼれ続けた。 ……しょっぱい。 冬子「……すんっ……だったら……もっと……もっとぎゅっとして……」 太一「はいはい」 冬子「ずっと」 太一「……はいはい」 言われるままに、腕に力をこめた。 良くないパターンだと思いつつ、従うしかなかった。 だけどまあ正直。 今のような冬子も、魅力がないわけではなかった。 そう。こんくらいまでは、いいんだ……。 太一「……明日、海に行かないか?」 冬子「うみ?」 舌足らずに繰り返す。 太一「何人か誘って、昔みたいに」 冬子「あー、去年行ったわね」 冬子「楽しかったなぁ」 太一「怒りまくってたじゃないか」 冬子「あれは太一がHなことばっかりするから……」 冬子「でも」 冬子「セクハラはいやだったけど、構ってくれて嬉しかった」 太一「……」 太一「くそう……」 ぎゅっ 冬子「きゃ?」 太一「冬子は可愛いな、ちくせう」 冬子「……なによ、それ……いけないことみたいな言い方して」 太一「恋愛は勝負なのだ。惚れた方が負けなのだ」 冬子「だったら、心配いらないわよ」 胸板に、鼻柱をこすりつける。 冬子「……私の負けでいいもの」 何気なく、入り口を振り返ってみた。 ずーーーーーん 太一「…………ぶほうっっ!!??」 水を噴きだした。 ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!? 見られていた、見られていたぁぁぁぁぁっ!! 顔を覆う。 だが、いつまで経っても呪殺攻撃はない。 太一「あれ?」 見ると、もう彼女はいなくなっている。 太一「……見逃してくれたか……」 彼女という恐怖の監視者を忘れていた。 母親が息子のエロ本を見つけるに匹敵する感知能力を持った、超強敵なのだ。 太一「とりあえず助かった」 改めて、水筒を口に含む。 喉がカラカラだ。 何気なく冬子に目を向ける。 剥き出しのヒップに、マジックで落書きされていた。 太一「ぶほうっ!」 再噴出。 あんな短時間で! しかもまったく気配なかった! スーパー忍者か? 何を書いたんだろう……。 見てみる。 『いんらんおんな せいえきべんじょ』 太一「陰湿っ!!」 女の嫉妬は恐ろしい……。 とりあえず、冬子の身支度を調えてあげることにした。 体液をぬぐって、衣服を整えて。 下着は……もらっておくことにした。 あー、お尻の文字……油性だ。 太一「うーむ」 自分では見えないから、放置しておいてもいいのだけど。 冬子「……んっ…………たい、ち……」 太一「…………」 美術室に行く。 教員用控え室から、シンナーを取って戻ってくる。 きしゃく 稀釈して布に含ませた。 拭く。 拭く。 拭く。 つるりとした卵尻が復活。 太一「ごめんな……冬子」 がるるるるるるるる 腹の虫だ。 野獣のようだ。 腹の獣とでも言おうか。 太一「腹減った……」 と。 くるるるるる 冬子の腹部からだった。 太一「……ぷ」 太一「おー、すいとる」 警備員の数が少ない。 いつもは十人くらい立ってるのに、今日は二人だ。 暑くなってきて、みんな精神的にも参ってきてるせいか欠席が多い。 だから学食も、どことなく閑散としていた。 おかげで競争率高めのメニューにも楽にありつける。 いや……とあるコネを使えば、簡単にありつけるのだが。 けどアレは使ってはいけない。 禁断の奥義なのだ。 諸刃の剣だし。 あーでも、遊紗ちゃんかわいいからなぁ。 B定食の食券を買い、カウンターに持っていく。 声「あらアンタ! こんなトコで何してんのよ!」(98ホーン) 太一「どわあああっ!?」出た! 声「ご挨拶ね、ぐふふ」 そう言って彼女は、ありふれたファンタジー物に出てくる洞窟奥で酒盛りに興じる異様に巨大な盗賊団のボス(時に入り口より巨躯なケースさえ散見される。ギャグか?)みたいなくぐもった声で笑った。 恐かった。 太一「驚かさないでよ、おばちゃん。このひ弱な文士をさ」 声「アンタが文士ってタマかい。馬鹿も休み休み言いな!」(118ホーン) ドカン、と怒声が学食に響く。 強化ガラスがビリビリと震えた(ありえない)。 めっちゃ注目を浴びる俺。 太一「……声が大きいよ、おばちゃん」 おばちゃん「普通に話してるんだけどねぇ。ここの子たちヤワだから!」(94ホーン) おばちゃん「あんたも手加減してやんなよ!」(115ホーン) 太一「!?」 危険を察知して、一歩下がる。 巨大な、異形と称していいてのひらが、ゴウッと眼前を横切った。 太一(今の)(スキンシップ?)(直撃していたら……)(死!?) ついつい筒井○隆の七瀬シリーズで使われたみたいな心理表現方法を用いてしまう。 なんつうか七瀬繋がりってあると思うし(ねぇよ)。 おばちゃん「やっぱりはしっこいね、アンタは! ぐふふ」 おばちゃん「メシかっくらいにきたんだろ?」 太一「は、はひ」 ライオンに餌をやるような気持ちで、食券を差し出す。 おばちゃん「遊紗が世話になってるから、サービスしてやるよ」 太一「ははは、どぉも、ははは」 そう。 この方こそ、究極美少女・遊紗ちゃんの実母であらせられる。 つまり彼女も数十年後にはこうな——— ママン「どうしたい? ふらついて」 太一「ソーリー、めまいが」 ママン「そりゃいけないね。血肉が足りないんだよ」 母上様は決めつけた。 ママン「はいよ、S定食」 太一「Sなんてあったんですか」 ママン「アンタのために作ったのさ!」(118ホーン) 学食中に響き渡る、でかい声で言われた。 ヒソヒソ…… ヒソヒソされる。 太一「……ありがたいのですが母上様……」 ママン「あら母上様だなんて嬉しいねぇ!」 ご飯が倍に盛られた。 ママン「ね、あんた、娘とはどうなのよ?」 太一「は、どうと申されますと?」 ママン「うまく手なずけたみたいじゃないか!」 太一「げふんげふん!」 ママン「婿か。いいねぇ。ぐふふ」 太一「ムコっ!?」 マスヲっ!? 太一「あいや、お待ち下され母上様!」 ママン「大丈夫さ、心配はいらないよ!」 トンカツが二枚になった。 これは……賄賂! Y炉ですか? ヒソヒソ…… 太一「あわわわわ」 噂されてる! 俺、今すっごく噂されちゃってる! ママン「アンタもいろいろあるんだろうから、難しいこと考えなくてもいいんだよ」 ママン「全部アタシに任しときな」 具は薄いワカメしかないはずのみそ汁に、なぜかカニが丸ごとぶち込まれていた。 ヒソヒソヒソヒソ…… 声「……収賄……」 声「天下りで……」 声「……インサイダー取引が」 声「何か非合法の……」 声「……参拝問題の当事者……」 太一「うぐぅ!」 まずい。 黒須太一の沽券に関わる問題。 トンカツは四枚になっていた。 太一「多すぎっス!」 ママン「ん? なんだい、これくらい食べられるだろうよ、男の子なんだから!」 沖縄のサンゴを貪り食うオニヒトデみたいな手で、ばちーんと肩を叩いてきた。 自重の倍ほどの重みが、俺を床に押しつけた。 太一「ぐわああああ!」 膝をつく。 ママン「あら失敬! ゲハハ! やっぱり食べなきゃ。そんでもっと太らなきゃ!」 太一「ううう」 遊紗ちゃん……はやく家を出ないと、太らされてしまうよ。 常人の五倍以上の食料を抱えながら、適当な場所に座る。 友貴「相変わらず、強力なコネクションだなぁ」 Cランチのトレイを抱えた友貴が、隣に座る。 太一「友貴先生か」 友貴「あやかりたいもんだ」 太一「あやかってくれ」 友貴「いいの?」 太一「こんなに食えない」 友貴「じゃ遠慮なく」 トンカツを持っていった。 友貴「さっきまで桜庭とパン食ってたんだけど、足りなくてさ」 太一「元運動部だもんな」 友貴「筋トレとかもうやってないんだけどなぁ」 太一「筋肉はあるだけで脂肪を消費してくんだよ。だから筋肉つけてるヤツは燃費が悪いんだ」 友貴「へえ。じゃ筋肉ない方がいいわけ?」 太一「んなバカな。余分な脂肪がつかない体質になるから、適度に筋トレはしといた方がいい」 友貴「なるほど」 太一「桜庭はまたカレーパン?」 友貴「七個くらい食ってた」 太一「うげ」 友貴「ここの学食業者のがマイフェイバリッド・カレーパンだとか言ってさ」 太一「アホ舌だ」 友貴「アホ舌だな」 食う。 太一「くそっ、食っても食っても減らん!」 友貴「……もらっとこうか?」 太一「もらってくれ」 友貴「おい、みそ汁にカニが入ってる!」 太一「……入ってるんだ」 友貴「どういうコネだよ……」 太一「世界最強のサブミッション、マスヲホールド(婿固め)だ」 友貴「例のおばちゃんの娘ってやつ?」 太一「んだ」 友貴「やっぱ、母親似なのかな」 太一「いや、すっげー可愛い眼鏡っ子。俺になついてんの。言うこと全部信じるし、たまらん」 友貴「なんだ、無問題だ」 太一「いや……」 太一「スイス銀行に口座を持っちゃうようなアグレッシブな固ゆでジョブに就くだろう俺は、カタギのクーニャンとニャンニャンしちゃうわけにはいかんのだ」 友貴「寝言が聞こえる」 友貴「あ、太一さ、適応係数試験どうだった?」 太一「どーもこーも」 セルフサービスの麦茶をコップについでがぶがぶ飲む。 太一「激高。あかんです。担任もコイツやばすぎって感じで白い目してたし」 友貴「いくつよ?」 太一「……84%」 友貴「うわ、それ偏差値だったらなぁ」 太一「そーなのよ。まっずいよなぁ。俺、やばいことになっちゃうかも」 友貴「研究棟で解剖されるかもね」 太一「お慈悲」 すがりつく。 友貴「無理だ……17%の俺とは住む世界が違う」 太一「ってオイ! どうしてそんな常人と同じ数値やねん!」 友貴「……だって、俺外障だし」 太一「あ、そうか……」 太一「あまりにもバカなんで対等と思ってた」 友貴「おまえが言うな」 太一「あー、ラバ(桜庭の蔑称)も低いんだろうな」 友貴「あいつ15だったかな」 太一「あいつ、心障だろ? どうしてその数値で群青なんだろ?」 友貴「いや、あいつ願書に群青って書いたらしいよ」 俺たちは顔を見合わせた。 二人「はあああっ!?」 太一「……わけわかんね」 友貴「……同感」 太一「国の調査って結構いい加減なんだよな」 太一「あ、そういやおまえ、とっととお姉さんと仲直りしれ」 太一「やりにくくってしょうがない」 友貴「それはお姉ち……姉貴が裏切るから……」 コイツ今『お姉ちゃん』とか言いかけなかったか? ……まあいい。 太一「宮澄先輩が?」 友貴とみみ先輩は姉弟である。 苗字は違うが。 友貴「放送部に入ったのだってさ、無理矢理なんだ。帰宅部しようと思ってたのに、あなたパソコン少年でしょだったら手伝ってとか言ってさ」 友貴「パソコン少年だから手伝えという論法だ。どうか?」 太一「まいっちんぐ」 太一「いいじゃん。どうせ帰宅部みたいなもんだ」 友貴「まあな……どっちにしろバスケ部ないしなー、ここ」 太一「っつーか走れないんだろうに」 友貴「まー」 太一「あきらめれ。うるさい上級生とかいないから、気楽なもんだ」 友貴「帰宅部になったら、好きなだけ漫画読めると思ったのになぁ」 友貴「なんでいまさら姉貴と仲良く部活動しなきゃなんないのよ」 太一「……シスコンがそらぞらしい」 友貴「何か言ったか?」 太一「いーえー」 それは一年前の思い出だった。 太一「おー、すいとる」 警備員の数が少ない。 というかいない。 冬子「すいてると言うか、いないじゃない」 太一「ふ……」 甘いな。それは俺が一瞬先に思ったことだ。 とにかく学食は、閑散としていた。 おかげで競争率高めのメニューにも楽にありつける……わけではない。 厨房の奥に、人の気配もなく。 冬子「……で、こんなところに来てどうするの?」 太一「いや、コロッケパンだけじゃ飽きると思ってさ」 桜庭がいたあたり。 いた。 太一「…………」 桜庭は死んでいた。 桜庭「……うう……」 太一「ずっと食ってたのか」 アホだ。 カレーパンは大量に余っていた。 ケースを一つもらう。 中身をあけて、食べる。 太一「ふむ」 腐っている形跡はない。 太一「……そういえば、月曜からあるってことは、搬入は日曜夜ってことだよな?」 その瞬間まで人類が生存していたとして、もう四日か。 食べ物が腐ってないのはなぜだ? わからない。 太一「ほら、腐ってないみたいだ」 冬子「あ、毒味してたんだ……」 太一「なんだと思ったのさ?」 冬子「……う、ううん、なんでもないっ」 独り占めするとか思ってたな、コイツ。 太一「人がおまえの美尻を保つのに苦労してやったというのに……」 冬子「えっ、びしり……ってなに?」 冬子デコを叩く。 太一「びしり、びしり!」 冬子「い、いたい、いたいわよっ」 太一「食え」 冬子「なにがなにやら……もう……」 困惑しつつ、ぱくつく。 冬子「……からい」 太一「辛口なのだ」 冬子「のみたい……」 口を押さえる。 舌の弱いやつだ。 水筒を持ってきている。 太一「ほれ」 冬子「あ」 むしり取って、飲み口を見つめる。 太一「……どした?」 冬子「だいぶ減ってるね」 太一「? いいよ、飲んで。俺はいらないし。水は蓄えあるし」 冬子「……飲んだのよね?」 太一「え、飲んだけど?」 冬子「…………そうなんだ」 なにを気にしているんだ? まさか!? 間接キスを? 鼓動が強まった。 見るのは初めてだった。 冬子「……間接キス、だね」 太一「…………」 太一「……………………」 冬子「……太一?」 太一「ぉぉぉおおおおおっ!!」 冬子「ちょ、どういうっ?」 乳首をひねった。 冬子「きゃうんっ!?」 太一「リプレイ、プリーズ」 沈む。 冬子「……それはスイッチじゃないっ!!」 太一「そうね……」 冬子「そもそもリプレイって……?」 太一「今のセリフ、もう一回ってことだよ」 起きる。 太一「さあ、リプレイだ」 冬子「…………やよ」 やよ、と来たか。 大盤振る舞いだな。 太一「やっぱ必要だな」 冬子「何がよ?」 太一「待ってろ」 教室に行く。 戻ってくる。 太一「ビデオカメラ」 バッテリーはまだある。 設置。 スイッチオン。 太一「さあ、もう一度さっきのセリフを、Q」 冬子「なにがしたいのよっ!」 太一「…………はあ?」 冬子「唖然とするなあっ!」 冬子「私がおかしいこと言ってるみたいじゃない」 太一「え、だって……どうして記録したらいけないの?」 冬子「なぜ記録する必要があるのよ!」 太一「……保存しておきたいから?」 と、小首をかしげる。 冬子「なんで疑問形なのよあなたのすることでしょ! それになぜ保存しておきたいのよ!?」 冬子「なに? 私ヘンなこと言った!? そんなに遠回りに馬鹿にするほどおかしかったの? そんなに滑稽だったの!? 私……私、こんなに想ってるのに、そっちはこちらを笑い物にする程度しか興味ないんだっっっ!?」 点火してしまった。 太一「あー、きみ、ちょっと落ち着きたまえ……」 冬子「○×△□$#%&○×△□$#%&ッッッッッ!!」 うわあ。 仕方ない。 太一「おまえとの思い出を、記録しておきたかったんだ!」 ぴたり、と冬子の口舌が止まる。 冬子「……そうなの?」 太一「今の幸せな時間を、いつか振り返れるようにさ」 太一「ハハ……まずかったかな?」 純朴青年『やっちゃった』風に、後頭部をかく。 太一「僕、冬子のこと本当に好きだからそれは本当だから……いつまでも美しい思い出としてとどめておきたかったんだ」 冬子「太一……好きっ!」 ひしりっ 抱きついてくる。 太一「冬子! あながち嫌いではないっ」 冬子「…………ぇ?」 太一「嗚呼、冬子!」 冬子「あぁ……た、太一っ」 鎮火成功。 冬子『××××××××××』 緊急ファック。 ビデオカメラの再生機能だった。 しかも大ボリューム。 冬子「……え……私の声?」 ぱぎゅうっ!? 俺の思考は停止した。 冬子「ち、ちょっとちょっと!!」 身を離す。 冬子「桜庭っ!?」 桜庭がカメラの前に座って、じっくり映像を見ていた。 桜庭「…………」 呼びかけても反応しない。 じっくり見ている。 泣きそうな顔で、桜庭の背後から付属モニターをのぞきこむ冬子。 まぐわいリプレイ。 冬子「こっ、こっこっこっこっこっ??」 太一「ニワトリ?」 冬子「これってこれってこれってっ!?」 オウムだった。 太一「……あははは」 太一「実はさっきの撮影してたんだ……あははー!」 冬子「……」 冬子の気配が変わる。 モニターの中で、冬子はくてりと気絶していた。 そのあとに何が起こったのか。 彼女は見た。 太一『ばんざーい、ばんざーい』 太一「…………」 冬子「…………」 対峙する二人。 ぐにゃり 空間が歪んだ。 冬子がニィと笑う。 じ、獣臭っ!? つうか殺気!? 食堂全体に膨れあがってしまっているっ!! 冬子「…………ーぃ」 呟いている。 気が触れたか? 耳をすませた。 冬子「……ざーぃ……ばんざーい、ばんざーい、ばんざーい、ばんざーい」 薄笑いを浮かべながら機械的に俺のセリフをっ!? まずい! 桜庭「一つ、気になったことがあるんだ。真面目な話だ」 桜庭が挙手した。 キジ 雉も鳴かずば撃たれまいに。 桜庭「これは×××なのか?それとも———」 セリフの途中で突如、桜庭がくずおれた。 セリフの途中で突如、桜庭がくずおれた。 起きてこない。 スイッチが切られてしまったかのように。 見れば冬子の手が、桜庭に突き出されていた。 だが触れた様子はない。 ただ手を突きつけただけだ。 太一「気で!?」 冬子「ばんざーい、ばんざーい、ばんざーい、ばんざーい……」 太一「は、はわわわっ」 チン いつの間にかハラキリ丸も召還されているッッッッッ!? 政宗『冬子の怒りが頂点に達したその時、4.35光年の彼方から時空を越え、妖刀ハラキリ ブレードはわずか0.05秒で空間両断跳躍を果たすのである!』 太一「誰だ貴様は!!」 人類滅亡してんじゃないのかよ! 冬子「……ばんざーい、ばんざーい」 太一「お、お慈悲っ!」 後期の梶原○輝作品に出てくるヒロインがよく使ってた屈服の言葉を吐いて、俺は土下座した。 だが。 太一「晴れていたのに一瞬で嵐にっ?」 政宗『抜けば必ず嵐呼ぶ、それが妖刀ハラキリ・ブレードなのである』 太一「だから誰なんだ貴様は!」 幻聴風情が! 冬子「黒須太一……」 太一「だって! 冬子が俺のエロ本全部燃やしちゃうんだもん! かわりのオカズが必要なんだってばよっ!!」 冬子「二つにしてあげるわ」 二つにされる? 一つであっての俺なのに! 太一「こうなったら……俺も黙っていないぞ! 専守防衛だ!」 同じ指針を掲げている国があるが、領海に堂々と侵入してきた不審船相手に威嚇一つ満足にできない俺ではない! カメラと一緒に持ってきた太一袋から、マイダガーを……。 あれ、ないよ? 家に忘れたのかぁぁぁぁーっ!? かわりに俺はテレビのリモコンを取り出し、冬子に突きつけた。 太一「動けば微弱な赤外線を照射するぞ!」 ……意味ねー! 冬子「……」 敵、攻撃態勢。 太一「ひいんっ!」 リモコンを捨てて頭を抱えた。 しかし……斬撃はない。 目を開ける。 刀をおろす冬子の姿。 ビデオカメラがゆっくりと二つに折れた。 切断されている。 太一「はにゃ〜ん! 俺のハイテク盗撮機材がーっ!!」 冬子「……悪は滅びた」 太一「そんなー!!」 首筋に刀。 冬子「……死ぬよりましでしょう?」 太一「オッシャルトーリデス」 帰り、冬子の荷物を持たされた。 太一「……うーあー」 冬子「ふぁいとよ、太一ー♪」 太一「へーい」 逆らう権利はなかった。 荷物は軽い。 けど坂だからしんどい。 冬子「〜♪」 気楽だなー。 けど、そんな怒ってなくて良かった。 冬子「ねえ、太一?」 太一「あい?」 冬子「海って本当に行くの?」 ああ。 それが楽しみとして、あったのか。 先に楽しいことがあれば、人は幸せなんだ。 人はみんな一人のまま死ぬのに。 孤独であるということ。 それを忘れることができるよう、楽しむ力がある。 太一「……行こうか」 冬子「うん!」 太一「二人で行くのと、大勢で行くの、どっちがいい?」 冬子「え、大勢って?」 太一「まあ、行きたいヤツだけ誘ってさ」 冬子「……いるかしら」 太一「そうだな」 桜庭は平気。 友貴はどうかな。生存部が忙しいかな。 見里先輩は部活があるかな。 美希はOKかも。 霧は厳しいけど、美希が来るならついてくるだろう。 曜子ちゃんは、論外として。 太一「何人かは、来ると思うよ」 冬子「太一はその……どっちがいいの?」 冬子「みんなで行くのと、二人っきりなのと」 チラ、と横顔をうかがってくる。 恋愛慣れしていないというか。 ウブというか。 こういうところは素直に好きだ。 太一「……」 してみると、俺はけっこう冬子が好きなのかもしれない。 太一「ははっ」 冬子「?」 太一「じゃあ明日はみんなで行って、冬子とは来週の金曜日に行こう」 ぱっと輝く表情。 冬子「そうね、それがいいわね」 冬子「お弁当、持って行かないとね」 太一「……俺が作るんだよね?」 冬子「手伝うわよ」 太一「うーん、でもハラキリ丸はうちの台所には長すぎるよ」 冬子「持ち込まないわよ、刀なんて!」 呼び寄せるだろ……。 冬子「んー、でも今から人を集めることってできるわけ?」 太一「夜になってもすることないしね」 太一「それに俺、夜行性なんだ。夜の方がいいの」 冬子「夜型ってことでしょ?」 太一「……というのとは、ちょっと違うんだけどね」 太一「まあ、任せておきなさい」 冬子「……」 冬子「ねえ、荷物半分持ってあげようか」 おやおや。 太一「いいよ。こんくらい」 冬子「じゃ、こうして手伝ってあげる」 腕を組んできた。 太一「おっと」 冬子「ふふふ」 全然手伝いになってないじゃん……。 ま、いいか。 冬子「〜♪」 その幸せそうな横顔を見ていると、夕日が赤すぎて、悪戯心が膨れる。 ……突きつけてやりたくなってしまう。 希望のない、この世界と俺たちの末路を。 ぎゅっと目を閉じる。 夕日はよくない。 世界の破滅を感じさせる色。 一日一回、世界は滅びていたんじゃないかと、昔は思っていた。 太一「……あ」 坂の上に。 彼女がいた。 自転車の少女。 七香「……………………」 水平に腕を伸ばす。 指先が、何処かをさしている。 見た。 山? キャンプ場に出る……山道方面だ。 視線を戻すと、もう少女はいない。 太一「…………ぉゃ?」 冬子「来週は、髪、切りっこしましょうよ」 冬子「短く切ってさっぱりしましょ。笑って暮らして元気になるの」 冬子「アメリカの農村みたいに暮らすのよ。それでデザートにトウモロコシを食べるの」 太一「そだね」 冬子には見えなかったらしい。 まっすぐ前方にいたのになぁ。 すこしふしぎ。 太一「……で、なぜトウモロコシ?」 冬子「正式なディナーで出てきたらどう食べる?」 太一「え? ナイフとフォークで?」 冬子「ええ」 太一「あれをナイフで切るのは難しそうだ……」 冬子「でもデザートに出てきたら?」 太一「うーん……」 冬子はくすくす笑う。 冬子「手で食べていいのでした」 太一「……そうなのか」 冬子「じゃバナナはどうすると思う?」 太一「手でむく」 冬子「はい、失格です」 太一「ナイフで切るのか?」 冬子「そう」 太一「……うえー、マナーわかんね」 冬子「そんなことして暮らしてたら、すぐ人も増えて行くわ」 冬子「みんな戻ってくるんだから」 そういう希望の持ち方もあろう。 太一「あるいは、俺たちで作るとかね」 冬子「……」 太一「……」 キスしたくなる。 小粋に顎をつかんだ。 冬子「……すけべ」 がじっ 太一「いってててっ! 指を囓るなぁ!」 夕食には缶詰をたらふく食った。 CROSS†CHANNEL 楽しい海だった。 今でも、皆のはしゃぎようは思い出せる。 冬子「きあああっ!? どこつかんでんのよっ!?」 太一「水着のお尻のとこの布」 見里「支倉さんって……黒須君とどういうご関係なんでしょうねぇ?」 太一「ん、曜子ちゃん?」 冬子「曜子ちゃん!?」 見里「曜子ちゃんっ!?」 美希「曜子ちゃんっっっ?」 友貴「曜子ちゃん!!」 美希「ヤクザですねもう」 見里「カ、カラダはいやぁ〜」 遊紗「あのっ、失礼しますしますしますっ!!!!」 冬子「ばーか」 遊紗「あっ、くるっ、くるるっ?」 美希「い、いたい〜、おでこいたい〜」 見里「……ぶつぶつぶつ」 太一「楽しかったけどな」 楽しい海水浴はこれでおしまい。 美希の傷は、ほんの少しだけ跡が残りそうだった。 それでも帰り道、本人は晴れ晴れとした顔をしていた。 傷ついたかわりに、何かを得たような。 そんな顔だった。 そのあと、見里先輩が放送部用のアンテナ搬入につきあうため、学校に戻って。 まだ姉とは断絶していなかった友貴が、皮肉を言って。 そのシスコンぶりを、当時まだ群青付属三年生だった美希にからかわれて。 遊紗ちゃんが、集団というものに対してはじめて、小さく心を開いた。 そんな海だったんだ。 太一「さて、そろそろ寝ますか」 冬子「わん」 太一「んー、冬子はお嬢様なのにチェスが弱いよな」 伸びをする。 冬子「……わん」 10勝0敗だった。 海から戻ってきて、なぜか冬子は萎んでしまったので、気を紛らわせようと勝負を挑んだのだった。 太一「夜食とかいる?」 冬子「わん」 首を左右に振る。 太一「じゃ寝るとするか」 太一「ほら、おいで」 優しく呼びかけると、冬子は顔を赤くした。 冬子「……わぅん」 ベッドにあげる。 抱きしめる。 太一「んー」 首筋にキスを繰り返す。 冬子「……わふっ……んっ……わんっ」 太一「ところでさ」 冬子「……わん?」 太一「どうしてわんわん言ってるの?」 冬子「あんたがチェスで負けた罰として、犬語を強要したんじゃない!!」 太一「あー、そうだっけ」 忘れてた。 太一「じゃあ犬語で」 冬子「……あの……その前にひとつ質問なんだけど……いつまで犬やってればいいの?」 太一「次のチェスで冬子が勝つまで……」 冬子「犬になって死んじゃう!」 顔を覆った。 太一「じゃあ、今日これから一時間Hなことして、冬子が一度もイかなかったら許してあげる」 冬子「……」 冬子「変態」 冬子「変態変態」 太一「うひ」 冬子「変態変態変態っ」 太一「その通りですよ、お嬢様」 冬子「……いちじかん?」 太一「いえす」 顎を立て肘で支える。検討。 Hするとき、だいたい一時間はゆるゆると触りあう。 飛ばす必要はないし、時間は余るほどあるのだから、当然だ。 冬子にしてみればそれが全ての判断材料となる。 冬子「いいわよ」 冬子「楽勝だと思うわ」 この言葉がいけなかった。 火がついた。 太一「そーですか」 太一「ほら、うちでは客は床に寝るんだ」 冬子「……ううう、床がかたいと眠れないのに……けち」 太一「女の子が横に寝てたら、一晩中Hな悪戯し続けるしかない」 冬子「しかないって……」 太一「眠れないんだったら、好きな部屋のベッド使っていいからさ」 冬子「……ぅー」 悩んでいる。 瞳が切ない感じだ。 俺も心も切ない感じだ。 太一「ふ、不服かね?」 冬子「いい……ここで、寝るわよ」 くそ、可愛いな。 離れて寝たくないんだな。 けど甘くしたら駄目。 冬子はどんどん駄目になっていく。とろけていってしまう。 まるで飴玉のように。 だからゆっくりゆっくり、時間をかけてなめる。 ……なくならないように。 冬子「……太一、適度に厳しい」 まさに。 太一「おやすみー」 冬子「かたい……いたい……くすん」 床に敷いた薄い布団に、身を横たえた。 俺も横になる。 シン、と空気が静まった気がした。 窓から星の光が、無数の柱となって櫛目を作る。 別世界のようだった。 冬子「ねえ……太一……」 背中が語る。 太一「ん?」 冬子「ずっと一緒に、いられるのかな……」 太一「イヤって言っても、まとわりついてやる」 冬子「……ふふ、だったら平気かな」 太一「どうしてそんなことを?」 冬子「だって、人が消えたのよ? 私たちだっていつか……」 太一「……」 冬子「消えるなら、せめて一緒がいい……のに……」 冬子は眠った。 一緒、か。 深く考えたことはなかった。 人がいなくなったことについて。 なぜ消えたのか? いかにして消えたのか? 説明できる材料は何もない。 曜子ちゃんだって、何も言ってこないんだ。わからないに違いない。 彼女をもってしても、原因を予測することさえできない。 窓から夜空を眺めた。 だからこの八人で、生きていくしかない。 傷つけたり、好きあったりしながら。 CROSS†CHANNEL 太一「ふわあ……」 起床。 冬子「くぅくぅ」 隣で冬子が寝ていた。 軽やかな寝息。 熟睡といった様子。 太一「ぬぅ」 夜中に勝手に入り込んできたな。 罪深い女め。 冬子「……たいち……どこ?」 太一「目の前」 冬子「んー?」 ベッド脇で佇立している俺を、首の角度を変えて見る。 冬子「……おはよう、太一」 太一「ああ」 よし、バレてない。 冬子「ん……太一ぃ」 立ち上がる。 抱きついてきた。 太一「!?」 冬子「……たーいち♪」 キスを迫ってきた。 太一「&%#&%#%っ!?」 冬子「……え?」 怪訝な顔。 まずい。 不機嫌一歩手前だ。 冬子「どうしてよけるのよー」 冬子「朝のキッスでしょー」 再度迫り来る。 太一「ああ、モーニングキスか……OKOK、ちょっと待ってくれ」 顔をのけぞらして逃げる。 首を抱かれているので、逃げられない。 冬子「こーら、逃げないで」 冬子の額にキスをした。 太一「さ、着替えようか」 冬子「そんなんじゃだめ。ちゃんとするの」 くっ……。 太一「ちゃんと?」 冬子「おくちにキス。朝はそうなの」 太一「ああ、オクチね……おくちおくち……」 太一「よし、しよう。目を閉じて」 冬子「……ん、はい」 ツンと上向きにされた冬子の顔は、幸せいっぱい夢一杯の栗の花。 鼻の頭に唇をつけた。 太一「ちゅ」 冬子「……太一、そこ鼻」 太一「ごっめーん。冬子のクチの場所がちょっとわかんなくなってさ」 冬子「なに言ってるのよ」 太一「ここかな?」 ほっぺた。 冬子「たーいーちー、いい加減にしないと……」 太一「OK、ここだね。ほら」 唇の横。限度線だぜ。 冬子「…………んー」 なお不満げな顔。 冬子「わかったわよ、歯を磨いてからしたいわけね。気を遣ってくれてるんだ」 太一「そーなんだよー、ミス冬子。おっフランス生まれの悪い癖さー、ハハハハ」 冬子「いいわよ。じゃ一緒に磨こうか」 太一「ああ、歯が削れるくらい磨こうぜ!」 冬子「隙あり」 ちゅう 太一「……………………!!」 一瞬で舌と舌を!? うわあああああああ!! しかし悲鳴も出せない。 冬子「んっ、たいちぃ……好き……んっ、んむっ、れるっ……」 うおおおおおおおっ!! 冬子「れろれろれろれろれろ〜」 かくはん 攪拌。 太一「んんんんんんんっ!?」 冬子「んーーー、んっんっんっ」 頭を左右に振りながら、深々と唇を噛み合わせてくる。 太一「んぶぶっ!?」 因果応報。 四文字が脳裏を駆けめぐる。 そして最後には、 太一「……ん、れろ……」 唾液を流し込まれた。 太一「……………………おぁ」 気を失う。 冬子「あ、あれ? 太一? ちょっと太一ってば!?」 冬子「……でも驚いた……太一が私のキスで気絶しちゃうなんて」 太一「そーかい……」 冬子「ふふふ」 冬子は異様にご機嫌だった。 冬子「太一って感じやすいんじゃない?」 太一「くっ……」 屈辱だ。 冬子「かなりMっぽかったりして」 太一「……うるさい、このフェラマッシーン」 冬子「え? なにそれ?」 太一「なんでもない!」 屋上。 来て見て驚く。 太一「……なんか……」 冬子「できてる……」 アンテナ。 配線。 ライブ用の放送席とテントまで用意されてる。 太一「先輩が一人で?」 けど当の先輩はいない。 冬子「…………」 太一「一人先輩は健全かつまっすぐに部活動をしていたわけだな冬子よ」 冬子「ど、どうして私だけ悪者に……」 太一「うーん、しかしこりゃびっくりだ」 冬子「……宮澄先輩は、いらっしゃらないのかしら?」 太一「姿見えないなあ」 土曜だから休んでるのかな? でも確か、群青コミュニティFM局の開局予定日って明日だったような? と。 遠くから、冬子が手招きしていた。 太一「なにー?」 接近。 冬子「これこれ」 太一「あ……」 見里「……すや〜」 寝てる。 太一「ずっと一人でやってたんだな」 そのためか、先輩はちょっとボロっちかった。 眼鏡ずれてるし。 制服ほつれたりしてるし。 太一「……」 鼻を近づけてスメルを確かめる。 太一「ちょっと甘酸っぱい感じの汗の臭いがす———」 冬子「ヤメナサイ」 リアルな音だった。 太一「ぉぅ」 脳震盪を起こしそうになる。 冬子「女の子のいろいろな匂いに興味持ったらだめよ」 女の子のいろいろな匂い、という単語だけでもうとても駄目である。 太一「質問」 挙手。 冬子「はい、太一」 太一「冬子は僕の前でおならをしたことないんですけど、どこでしてるんですか? またその時、どの程度それを意識して避けているんですか?」 冬子「おならって何かしら?」 言い切った。 太一「……強くなったね」 冬子「変なこと言うのね」 おお、冬子がせくはらを受け流している……。 感動。 太一「フフフ」 冬子「フフフ」 ライバル同士のように不敵に笑いあう。 見里「……にゃむ……」 太一「あ、起きた」 上空で怪しい対決をしていれば起きるか。 太一「ハロー、先輩。太一です」 見里「……あえ……ぺけくん?」 太一「あなただけの太一です」 冬子が凄い目で睨んできたけど気にしない。 太一「しゃぶれと言うならしゃぶります。さ、どうぞしゃぶれとお命じを」 冬子「たーいーちー!」 太一「うおおおお」 後頭部アイアンクローが今すごく痛い。 だが耐える! 見里「あの……どうしてここに?」 太一「……ええ、先輩の美しい寝顔を見に」 冬子「おぼえてなさいよ」 冬子が背後でつぶやいた。 太一「というのは冗談で、様子を見に来ました」 見里「ようすを」 太一「だいぶ準備できたみたいですね」 見里「え、ええ」 冬子「……あの、宮澄先輩、おひとりでこれを?」 見里「ええ……だって」 続く言葉を、先輩は呑み込んだ。 戸惑いそのものは、しばらく顔に張りついていた。 だから彼女がどう言いたかったのか、わかった。 見里「だって、わたしの仕事でしたから」 太一「あなたの仕事。つまり私の仕事でもあるということです」 手を取る。 甲にキスもする。 見里「あの……」 冬子「…………」 はっ? 太一「こら、ハラキリ丸はいかん!」 嵐になったー!? 見里「きゃっ、どうして突然?」 太一「妖刀の……幾百年と人の血を吸ってきた、禍々しい怨念のせいです!」 冬子「……アブトル、ダムラル、オムニス、ノムニス」 な、なんか不吉な呪文唱えてるマス!! 太一「ストーップ! ストーップ!」 冬子「我と共に滅ぶべし……」 太一「ノーモア心中っ!!」 太一「OKOK、落ち着くんだ。俺たちの仲だろう?」 冬子「……そうね……」 わかってくれたか。 冬子「私がいてもお構いなしに女を口説けると思ってしまうくらいの仲よね……」 太一「ほわわっ」 冬子「大丈夫。安心して」 ニタリと笑う。 冬子「この刀はとても良く斬れるから、あなたの煩悩だけを斬ってくれるはずよ」 太一「そ、そんなのは菊池○行の小説の中だけの話ですよね!」 冬子「……うわきもの……すけこまし……たねうま……えろがっぱ……へんたい……しきま……こうしょく……しきじょうきょう……」 太一「あ、あああぁぁ」 すべてのエロ罪が我に! 見里「メガネ、メガネ……」 俺がまばゆいばかりに命の危機に見舞われているその頃、先輩はのんきにメガネイベントを発生させていた。 うわー、一部始終撮影してぇ! けど死ぬー! 撮影欲と生存本能がせめぎあう。 ……撮りたい! 撮影欲が勝った。 そっちが勝ってどうする。 太一「くっ、死ぬわけには!」 冬子の肩を抱く。 苦肉の策。いや、肉欲の策か。 太一「冬子、アイアイアイアイアイラビュー」 冬子「えっ?」 ぶちゅー 冬子「んんっ、んっ、んむぅ……んっ……あふっ……ぁん…………ん……んんん……ゃん、舌入れないで……あぅん……うっ、れろ……やぅ、かんじゃイヤ……いやぁぁぁ……」 超ディープキス。 というか口腔セックス。 見里「はわはわ。メガネ、メガネ」 撮影してぇー! だが今はマイタン(俺の舌)に集中だ。 冬子「あむっ……んっ……んんん、んぅ……んー……っ……あぅ、あ、ゃむん……べろ、抜けちゃう、からぁ……ん……んちゅ……れるっ……」 見里「はわはわはわ。見えません見えません」 チュウとメガネ。 冬子「んゅ……ぢゅる……あむん、んっ、んん……たいひぃ……あん、つば、ながしこまないで……あん、のむ、のむから、くすぐらないで……んっんっ、こく、んく、んんんん……ふぁ、のみきれ、ない……ぁん……」 見里「ひん、見つからないですー」 続・チュウとメガネ。 冬子「えるん、んっ、ちゅ、ちゅるっ……らめぇ、わたしも、すうの……たいちの舌、すう……ん、ちゅ、ちゅるん……んんんん……」 見里「あっ……と、これは宴会用の鼻眼鏡じゃないですか……これじゃなくて……」 続々・チュウとメガネ。 冬子「あんっ、ゆび入れて……こらぁ……あっ、ふぁん、んぁ……んっ、わかった、しゃぶるから……あむ……んっ、ちゅ、ちゅ、んっんっんっ」 見里「むう。これは何ですか? あ、夜間作業用の暗視ゴーグル……」 またまた・チュウとメガネ。 冬子「……や……んん、んむっ……んぁ……ちゅ、ぢゅるるっ……、ふぁんっ、そんな吸われたら、すわれたらぁぁ……んっ、んむむっ」 冬子「んーっ、んーっ、ん……んぅぅぅぅぅっ、んっ…………んんんんん〜〜〜〜〜〜っっっ!!」 くてり イッたか。 俺の腕の中で、ぐったりとする冬子。 見里「あ、あったぁ!」 見里「装着です」 しゃきーん みみみ先輩の復活だ。 見里「……桐原さん、どうしました?」 太一「風邪みたいです」 見里「顔、赤いですね。それに汗もかいてますし」 見里「大変、体がピクピク震えてますっ」 太一「ああ、これはアク……うぉっほん……アクシオン反応ですね」 見里「……アクシオン反応?」 見里「それは重篤な病気なのではありませぬか?」 太一「たいしたものじゃありません」 太一「いやー、見つかるといいですねぇ、暗黒物質」 見里「……?」 見里「はやく支倉さんに診てもらっては?」 太一「そうですね。連れて帰ります」 背負う。 冬子「……んっ……たい、ち……」 耳元に熱い吐息がかかってたまらない。 家に帰ったが最後……ノンストップフィーバーが予想された。 階下におりる前に、振り返る。 先輩がぽつねんと立ち尽くしていた。 太一「あ、あのー?」 見里「は、はい?」 太一「……明日、部活に参加してもいいですか?」 先輩の瞳が、かすかに拡大する。 太一「コレも連れてきます」 顎で背中の冬子をさす。 見里「あ……はい、どうぞ……」 太一「じゃー、来ます」 扉の向こうに。 見里「あっ、あの」 呼び止められた。 太一「うい?」 すると彼女は我に返ったように必死な顔で。 見里「ど、どうぞっ……」 見里「どうぞ!」 言い直す。 大きな声。 こちらも、声を返した。 太一「らじゃっす!」 帰るなり。 冬子「太一ぃ……っ!」 玄関で挑んできた。 太一「はいはい」 冬子「……ん、はぁん♪」 服を脱ぐのももどかしく、キスをした。 夜になるまで目覚めなかった。 庭で炊飯の用意をする。 米が食いたくなった。 電子ジャーは使えないので、飯ごうで炊くのだ。 ここでおいしいごはんの炊き方をば。 ㈰自分を信じる ㈪米を量る ㈫米の一粒一粒が尊い命を持っている ㈬その無数の命で、人は生きていく ㈭だがどの命もやがては大地に還るだろう ㈮大地は命に等しく、命もまた大地に等しい ㈯いずれ、新たな命を生み出すために——— ㉀長編SF小説『ガイアの旅』完 ㈷米を研ぎ、20分ほど水につける ㉂夏場は逆にすげー辛いカレー食いたいよね ㉃炊く ㈹炎をじっと凝視しつつ危険な思想に身を浸すか自分をかばって死んだ戦友のことを思い出す(二択) ㈺炊けたら逆さまにして10分ほどむらす ㈱激ウマライスここに爆 誕 太一「できた」 冬子「……太一、よかった……そこにいたんだ」 冬子がやってきた。 不安そうな顔。 なぜか目尻が赤い。 太一「よ、起きたな」 冬子「…………ん」 神妙に頷く。 寄ってきて、背後から首に腕をまわしてきた。 きゅっ 冬子「……ねぇ?」 耳元で囁かれる。 首をまわして、キスをする。 さっそく舌を引き寄せて……。 冬子「ちょっ……だめっ」 唇を引きはがす。 冬子「……こういう時は、ついばむみたいのでいいのっ」 太一「ふーん」 冬子「じゃ、やりなおし。フレンチキス」 太一「フレンチキス?」 冬子「そうよ?」 太一「じゃあ」 ちうっ 最初から全力。 冬子「っっ!?」 ぬろっ、ぬろろっ、ちゅるっ、れろれろん、じゅるるるるるるる〜〜〜っ 口唇嬲り。 ちゅっぽん、と舌を引き抜く。 冬子「…………」 発情していた。 太一「……する?」 冬子「そ、そんら元気ないわよっ」 少し呂律が怪しかった。 冬子「……下着かえたのに……」 うわ、今のだけで濡れたのか。 冬子「フレンチって……言ったのに……」 太一「だから今みたいのがフレンチキス」 冬子「え……そうなの?」 太一「そうだよ。深々と舌を絡め、お互いの口を性器のように淫猥に蠢かせ貪り合うのがフレンチ・キスさ」 ※言い過ぎ 太一「だからフレンチ・トーストとか、それはもう下っ品な食べ物なんだよ」 冬子「やだ、よく食べてた……」 恥じらい。 冬子「キャビアのっけて」 太一「キャビアのことはもういい」 冬子「……軽いキスはなんて言うの?」 太一「んー、ソフトキスかな」 冬子「じゃあ、それ、して」 太一「ん、いいよ」 唇を重ねる。 いじわるはナシで。 冬子「……ん」 甘酸っぱい雰囲気になった。 男はこういうムードが性欲と直結するから、引き際が肝心だ。 冬子「いいにおい」 太一「ハラペコですか?」 冬子「…………うん」 少しだけ照れがある。 はじらいは、どれだけあってもいいと思う。 太一「じゃあ食べよう」 冬子「すごい、ごはんだ」 太一「少なくとも電子ジャーよりはうまい……かも」 最近の電子ジャーも凄いからな。 太一「おかずはレトルトカレーと缶詰です」 冬子「うん、いいよ」 二人で食べた。 冬子「あ、あつ……あちち」 太一「猫舌だなぁ」 冬子「ベロ、弱いの……」 太一「確かに弱いね」 いろいろと。 さっと赤面する冬子。 珍しく口答えしない。 太一「その弱点がある限り、キスするたびに下着汚れちゃうね」 冬子「う、う、う〜」 スプーンをくわえたまま、悔しがる。 冬子「……ふ、不覚〜っ」 太一「わはは」 冬子「……でも、おいしい」 太一「他愛のないレトルトと缶詰だよ」 冬子「だから……好きな人と食べるとおいしいのよ。どんなものでも」 太一「そっか」 冬子「ずっと、こうだったらいいのに」 太一「……」 夜は静かに更けていく。 本当に、人の気配もなく。 CROSS†CHANNEL そして、日曜日。 屋上。 すべての準備が整う。 ……はずだった。 アンテナは、破壊されていた。 太一「……」 一瞬、我が眼を疑った。 先輩があんなに一生懸命組み立てていたものが。 一瞬で。 すぐに思考の一部が、感情から離脱する。 冷静な思考に浸るために。 誰がやった? 世界には8人しかいない。 8人しか、いないのに。 太一「先輩!」 見里「…………」 彼女は破壊された尖塔の足下にいた。 太一「先輩?」 見里「……っ」 振り返る。 鋭く神経質な挙措。 肩に触れるはずだった手が空を切る。 見里「……ぺけ、くん」 押し出すように言った。 胸が軋んだ。 イントネーションにこめられた真意が、垣間見えたから。 友貴「太一!」 友貴「どうしたんだ、これ?」 桜庭「……」 連れだって、二人がきた。 太一「俺もさっぱり」 三人の視線が、先輩に向く。 見里「……私なわけないじゃないですか」 震える声が答えた。 見里「……自分で作って、自分で壊す人がいるわけないでしょう?」 太一「まあ」 そういう人もいたが。 人類が生存していた頃は。 いや? 先輩自身が壊した? 可能性はあるのか。 友貴「……姉貴、自分で壊したんじゃないのか?」 見里「え?」 友貴「完成したら、逃避先がなくなるから」 友貴「また自分で0に戻すために」 そう。 そういうこともあり得る。 特に先輩は。群青の人間だから。 友貴「逃げるために、逃げ道を作ったんだ」 見里「ちょっと待って。いくらなんでもそんな……」 鉄扉が開く。 会話が止まる。 冬子「……?」 冬子だった。 冬子「……げ、三馬鹿」 太一「……」 友貴「……」 桜庭「……」 反応がないのを奇異に感じたのか、冬子は近づいてきた。 太一「どうしてここに?」 冬子「支倉先輩が……話あるって矢文を……」 破壊されたアンテナを見あげる。 冬子「壊れた、の?」 太一「壊されたんだ」 太一「……誰かによって」 冬子「壊されたって……誰が?」 友貴「決まってる」 友貴「ここにいる誰かにだよ」 冬子の眉根が寄る。 冬子「それって」 太一「あまり愉快な話じゃないよな」 見里「そうですよ、愉快なわけない……自分で壊すなんて……ありえない……」 見里「絶対、違います」 ブツブツと呟きだす。 太一「このアンテナな、もとは放送部の活動用だったけど……救援信号を出すために使う予定だったんだよ」 冬子「え、そうなの?」 太一「そうでしょう、先輩?」 見里「……え、あ、そうです」 話を向けられて、少し戸惑う先輩。 見里「そういう意図もありました」 太一「それが先輩にとっての部活動だった」 太一「あながち逃避とも言えない。先があるからな」 友貴「…………」 太一「だから先輩のことを、俺は全然疑ってません」 見里「ぺけくん」 太一「あまり思い詰めないで」 見里「……ええ」 冬子「ちょっと、なにどさくさにまぎれて耳触ってるのよ!」 太一「こうすると落ち着くんだよ」 冬子「そういうのは恋人同士でやることでしょう!」 肩をすくめる。 太一「ふふふ、俺と先輩はいわば魂の恋人ソウルフルラブラバーなのだ」 桜庭「……」 友貴「……」 見里「……」 誰も笑わなかったし、ツッコミもなかった。 太一「…………」 寒い。 冬子に目線を送る。 太一(冬子)(冬子)(頼む!) 冬子「……え? なに? ウインクなんてしてどうしたの?」 超鈍かった。 太一「もういい!」 冬子「どうして怒られないといけないわけ……」 太一「OK、犯人捜しはもうやめだ! さってと皆の衆、こいつをチャチャッと修理すればSOSでヒューマンドラマだぞ!」 見里「……無理です」 太一「どうして!」 見里「必要な機材が燃やされています。修理はできません」 太一「燃やされてるって……」 足下の機材を指す。 見里「ガソリンっぽい臭いがします。かけて、燃やしたんです」 言葉がなかった。 そんな徹底してるとは。 太一「ま、まあ犯人なんて追求しても仕方ないなーっと」 見里「私は」 見里「犯人が誰か、知りたいですね」 太一「い……?」 見里「少なくとも私じゃない。だとすれば、あなたたちの誰かじゃないですか」 言葉は銃弾に似ている。 一度放てば、取り返しがきかない。 外れるか、傷つけるか。 だが見里先輩の言葉は、ことによく理解に届いた。 見里「あなたたちの誰かが裏切った」 優しいはずの眼鏡の先輩だった。 怒られることはあったけど。 告発されることはないと思っていた。 友貴「人を……裏切り者呼ばわりしてさぁ!」 唐突に友貴が叫ぶ。 友貴「あんたが、裏切りとか言うってことは———」 桜庭が動いた瞬間、友貴が倒れた。 桜庭「……」 殴った? 桜庭が友貴を? 太一「おいおいおいおい」 展開についていけない。 友貴「いてて、なにするん……」 桜庭「……どうして、壊した」 言葉は友貴に向けられていた。 友貴「……」 太一「壊したって言ったか?」 桜庭「どうして壊す必要があったんだ」 シリアスに桜庭は言う。 友貴「……何言ってんだ。知らないよ」 桜庭「俺は見た」 桜庭「おまえがアンテナを壊す瞬間を、見たんだ」 友貴「……」 見里「友貴、あなた……」 友貴「…………」 友貴の口元が、不自然に歪んだその瞬間。 再び、扉が開く。 音は甲高く、静寂に亀裂を入れた。 霧と美希だった。 そして。 霧は武装していた。 霧「動かないで!」 全員の動きが止まる。縫い止められた。 霧が手にするクロスボウ、そのこめられた矢によって。 霧「動けば撃ちます。これ玩具じゃありませんから」 その通りだ。 バックマスター社製・マックスポイントクロスボー。 オプションのコッキング装置がついている。 女性仕様といったところか。 とはいえ狩猟用の強力な武器。癖のない使用感。十二分な殺傷力。 おそらく誰かの家屋にあったものだろう。 にわか成金の多い街ならではの、無防備さで。 太一「……霧ちん」 霧「黒須太一は特に動くな!」 霧「わたしがもっとも、うっかり殺してしまいたい相手だから、あなたは」 冷笑する。 太一「…………ぉぃぉぃ」 冬子「ちょっと、どういうことなの? 全然わからない?」 冬子「佐倉もちょっと落ち着きなさいよ」 一歩踏み出しかけた冬子を、左に15度スライドしたボウの先端が制した。 霧「動かないでください」 冬子「ちょっと! 私は関係ないでしょ!」 霧「あるんです」 全員に向けて、霧は甲高い声を張り上げる。 霧「私たち、独立します」 独立? 桜庭「……つまり?」 霧「上見坂市の団地坂から、市役所までのライン……ここが私たちの領土ってことです」 太一「領土ぉ?」 霧「そこにある食料や水、衣類やその他の雑貨類も、当然こちら側のものってことです」 冬子「独り占めってこと!?」 霧「そうじゃありませんよ」 霧「食料品やその他の店は、設定した国境の反対側にも存在しますから」 霧「だいたい三割くらいです」 霧「妥当な取り分ですよ」 太一「妥当なのはわかった。けど理由は?」 問いかけに、鼻白む霧。 霧「あなたがたが信頼できないからです」 冬子「……」 霧「峰南町の向こう、坂井橋を越えた雑木林の中で……」 霧「死体がありました」 声なき衝撃が走る。 太一「死体……」 霧「老人の死体でした。詳しくは確認してません」 簡潔な説明で質問を封じて、霧はさらに続けた。 霧「犯人は……この中にいるとわたしは考えてます」 太一「突拍子もない話だな」 霧「あなたが一番疑わしい!」 俺にクロスボウが向く。 今にも矢が飛び出しそうだ。 霧「前科のあるあなたが……一番の容疑者なんですよ!」 桜庭「前科……?」 前科、か。 確かにそうだ。 霧「他の人だって、可能性はあります」 霧の隣、美希が小さく顔を伏せている。 発言する気配はない。 早く終わってほしいと、ただ願っているような。 太一「あー、きみたちの言い分はよくわかった」 太一「だが我々は同じグループの仲間であり、人類最後の生き残りで———」 霧の言葉が、切り裂いた。 霧「仲間だと思ったことは、一度たりともない」 シン、と屋上は冷え切った。 友貴「まあ、いい機会なんじゃないかな」 ひどく冷静な言葉。 友貴「どうせさ、何したってうまく行くはずもないんだし」 友貴「僕もこの人と仲良くなんて、考えたくもないし」 太一「アンテナ、壊したんだ?」 友貴「まあね」 友貴「姉貴が逃げるのが、許せなかった」 見里「……」 友貴「人の逃げ場を奪っておいて、自分だけ逃げるのかって」 友貴「人に厳しいなら、自分にも厳しくしないとな」 淡々とした言葉。 親しげに語りかけるようでもある。 友貴「独立。いいんじゃないかな、佐倉」 霧「……あなたたちは、信頼できない」 桜庭「それでいいのか、みんな?」 見里「……」 冬子「……」 友貴「……」 美希「……」 太一「……」 七人の平常。 失われたはずのもの。 友情の残骸でしかなかったそれも、今、完全に破壊されて。 決裂。ないしは断絶。 それは最初からあって、ただ、見えなかっただけなのだ。 友達の演技を、ひとりひとりがしていたのだとしたら。 違った。 こんなことを、夢想していたのではなかった。 俺がほんのりと期待していたのは。 違う。 こうじゃない。 断絶じゃない。 他愛ない部活動でよかった。 どこで間違えたのだろう。 そもそもにして、全てが壮大な間違いだったとも思える。 俺という存在。 群青という学校。 上見坂という街。 田崎商店という雑貨屋。 世界という全能。 太一「狂ってる」 俺は小さく呟いた。 黒いシルエットに支配される視界。 影法師たちが言い争っている。 終わらせたい。 すべて終わらせたい。 ざんし 残滓でしかない今でさえ、耐え難い苦痛だった。 人が滅んで、人との摩擦がなくなったと思った。 けどこの有様はどうだ。 八人だ。 たった八人で。 争い、憎しみあうのか。 そうか。 俺は真実を知った。 悟った。 ひとりじゃないと駄目なんだ。 複数ではいけない。 個でなければ、人は人のまま。 個。 個。 個。 個にするには? 目眩がした。 美希「……殺して、あいつを殺して!」 美希が叫ぶ。もうどうでもいい。 霧「美希?」 美希「はやく、はやくあいつを!」 美希「今殺さないと!」 ……どうでもいい。殺し合えばいい。 好きにしてくれ。 なんだったかな。 そう、優しい世界。 優しい世界だよ。 俺のような人間モドキでも生きていける、慈愛に満ちあふれた世界。 その実現。 ……どうやって? 決まっている。 動いているものを。 この眼で。 世界には動か静しかない。 動を静にする。 そういう思考が、確かにあった。 知らずに歩き始めていたのかも知れない。 *「*******」 誰かの声。 聞き取れない。 *「****!」 誰かさえわからない。 振り返ると。 何が起こったのか。 理解できない。 ただ。 解析もできない感情に、翻弄されていた。 **「****!?」 *「**……」 **「*******」 **「******……」 無数のノイズ。 聞き取れない。 俺は移動する。 その気にならなかった。 ノイズから離れようと思った。 フェンスに触れる。 押すと、網目状の壁がゆっくりと除去される。 空。 空に行こうと考えた。 **「******っ!!」 一際大きなノイズが、背後から届いた。 世界が緋色に包まれた。 色。 緋色という色を、俺は見て取った。 耳元に風。 風を切って、飛んでいく俺。 太一「……はは」 飛んでる違う。落ちてる。 しかもコントじゃない。 リアル落下だ。 イノセンス十代の得意技、ライフダイブ アピールだ。 別に俺、アピールすることないんだけど……。 まったく。 どうしてこんなことになったのやら。 やり直したいよ、本当に。 本当に。 そろそろ激突かな? くそー、そばに誰かいれば。 『俺の走馬燈がはじまるんだ』 などとヤングアダルトに相応しいクール台詞を吐きながら、ゆっくりと目を閉じてそりゃもう漢っぷりを発揮しながらスクリーンの向こうにアッピールしていくことができ そして俺は死んだ。 CROSS†CHANNEL goto "CROSS POINT(2周目)"